正親町実明
洞院公守の次男。正親町家の祖。権大納言。
正親町 実明(おおぎまち さねあきら、旧字体:正親町 實明󠄁)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣・洞院公守の次男。官位は正二位・権大納言。正親町家の祖。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 文永11年(1274年)[1] |
死没 | 観応2年/正平6年正月17日(1351年2月13日) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇→崇光天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流正親町家 |
父母 | 父:洞院公守、母:泰勝の娘[2] |
兄弟 | 洞院実泰、実明、賢助、桓守、良守、成助、公厳、覚深、成澄、済助、三条実重室、女子 |
妻 |
松殿兼嗣の娘、信玄の娘 正親町三条公貫の次女、正親町三条公貫の四女 |
子 | 守子、広義門院廊御方、公蔭、実子、慈能、一条局、後伏見院対御方、陽徳門院西御方、宣光門院廊御方、花園院女房対御方 |
経歴
編集藤原北家閑院流洞院家の出身。正親町、又は裏辻を号し正親町家の祖となった。
建治3年(1277年)正月、従五位下に叙爵し、弘安2年(1279年)従五位上、弘安3年(1280年)に侍従に任ぜられる。弘安6年(1283年)には正五位下、続いて従四位下に叙せられた。
弘安7年(1284年)左近衛少将に任官。弘安8年(1285年)従四位上に叙せられ、弘安9年(1286年)4月に春宮権亮を兼ねる。同年11月1日、権亮を辞任し、11日に右近衛中将に転じた。弘安10年(1287年)には播磨権介を兼帯し、正応2年(1289年)に正四位下に進み禁色を聴される。正応4年(1291年)従三位に叙せられて公卿に列した。
正応6年(1293年)正三位に叙せられ、永仁4年(1296年)参議に任ぜられる。永仁5年(1297年)権中納言に進み、永仁6年(1298年)に従二位、永仁7年(1299年)には正二位に叙せられ、乾元元年(1302年)11月に権大納言に至った。しかし、乾元2年(1303年)8月、権大納言を辞任し散位となる。元応2年(1320年)本座を聴され、元亨2年(1322年)に出家した。長年出家の願望があったという[3]。
建武の新政崩壊後は北朝に属し、観応の擾乱の最中である観応2年(1351年)正月17日の夜、78歳という高齢で薨去した。甥の洞院公賢は「随分寿考の人なり」とその長命を評している[4]。
官歴
編集※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 建治3年(1277年)正月5日:従五位下に叙爵(大宮院当年御給)。
- 弘安2年(1279年)正月5日:従五位上に叙す。
- 弘安3年(1280年)11月13日:侍従に任ず。
- 弘安6年(1283年)
- 正月6日:正五位下に叙す。
- 9月15日:従四位下に叙す(去る十二日位記を賜う)。
- 弘安7年(1284年)7月26日:左近衛少将に任ず。
- 弘安8年(1285年)3月1日:従四位上に叙す。
- 弘安9年(1286年)
- 4月13日:春宮権亮を兼ぬ。
- 11月1日:権亮を辞す。
- 11月11日:右近衛中将に転ず。
- 弘安10年(1287年)正月13日:播磨権介を兼ぬ。
- 正応2年(1289年)
- 正月5日:正四位下に叙す。
- 4月17日:禁色を聴す。
- 正応4年(1291年)正月3日:従三位に叙す(朝覲行幸。玄輝門院御給)。右中将如元。
- 正応6年(1293年)正月5日:正三位に叙す。
- 永仁4年(1296年)5月15日:参議に任ず。右中将如元。
- 永仁5年(1297年)10月16日:権中納言に任ず。
- 永仁6年(1298年)
- 正月5日:従二位に叙す。
- 3月15日:帯剣を聴す[5]
- 永仁7年(1299年)正月5日:正二位に叙す。
- 正安4年(1302年)/乾元元年
- 3月23日:権中納言を辞す。
- 11月22日:権大納言に任ず。
- 乾元2年(1303年)8月28日:権大納言を辞す。
- 元応2年(1320年):本座を聴す。
- 元亨2年(1322年)2月15日:出家。