鍋島綱茂
鍋島 綱茂(なべしま つなしげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥前国佐賀藩3代藩主。号は至徳斎。官位は従四位下・信濃守、侍従。
鍋島綱茂像(高伝寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 慶安5年5月5日(1652年6月10日) |
死没 | 宝永3年12月2日(1707年1月5日) |
改名 | 左衛門(幼名)、綱茂 |
別名 | 至徳斎(号) |
戒名 | 玄梁院殿卓巌道印大居士 |
官位 | 従四位下、信濃守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 肥前佐賀藩主 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 | 父:鍋島光茂、母:虎姫(上杉定勝の娘) |
兄弟 |
綱茂、吉茂、多久茂文、宗茂、千、伊東祐実側室、水野忠直正室、鍋島茂正室、鍋島直恒正室ら41人 興祥院 |
妻 | 布与(松平光通の長女) |
子 | 吉茂、榊原政邦正室 |
略歴
編集2代藩主・鍋島光茂の長男として誕生。母は上杉定勝の娘・虎姫。幼名は左衛門。4代将軍・徳川家綱より偏諱を授与されて綱茂と名乗る[1]。
元禄11年(1698年)、西御屋敷(大名庭園「観頤荘」、かんいそう)の造営を命じ、ここで政務を行うこともあった[2]。
宝永3年(1706年)に56歳で死去した。法名は玄梁院殿卓巌道印大居士。男子が無かったため、実弟・吉茂が養子として跡を継いだ。
「学問を好み給ひ、詩をも能し、書画にも達し給ひぬ」(堤範房著『雨中の伽』「文学」、文化9年(1812年)自序)と評され、文事を得意とした藩主だった。絵事は、藩御用絵師の小原友閑斎が師範を務め、河村若芝門人である上野若元を召し抱えたことなどが知られる。綱茂自身の絵も「八仙人図」[3](鍋島徴古館蔵)など、狩野派をよく学んだことがわかる作品が残っている。