鍋島光茂
鍋島 光茂(なべしま みつしげ)は、江戸時代前期の大名・歌人。肥前国佐賀藩2代藩主。二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けた。生母は徳川家康の曾孫なので、光茂は家康の玄孫にあたる。
鍋島光茂像(高伝寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永9年5月23日(1632年7月10日) |
死没 | 元禄13年5月16日(1700年7月2日) |
改名 | 翁介(幼名)、光茂 |
戒名 | 乗輪院殿全機良運大居士 |
官位 | 従四位下、丹後守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 肥前佐賀藩主 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 |
父:鍋島忠直、母:牟利 養父:鍋島勝茂 |
兄弟 | 異父弟:鍋島直之 |
妻 |
正室:虎姫 継室:甘姫 継々室:振 鳥巣氏、真木氏ら |
子 |
綱茂、吉茂、多久茂文、宗茂、千、伊東祐実側室、水野忠直正室、鍋島茂正室、鍋島直恒正室、ら41人 興祥院 |
生涯
編集寛永9年(1632年)、鍋島忠直(鍋島勝茂の四男)の嫡男として誕生した。母は姫路藩主松平忠明の長女・牟利(無垢子)。元服して3代将軍・徳川家光より偏諱を受け光茂と名乗る。
明暦3年(1657年)、祖父・勝茂の跡を継ぐ。寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止した。天和3年(1683年)、格式差の無かった蓮池藩・小城藩・鹿島藩ら三支藩に三家格式を制定して、佐賀藩の支配下に置いた。元禄4年(1691年)、佐賀城内二の丸に聖堂を建立した。元禄8年(1695年)に隠居し、家督を長男の綱茂に譲った。
元禄13年(1700年)、死去。享年69。
京都に出向く大名行列の折には、他藩と比べて装束が見劣りしている。財政的には豊かではなかったと想像される。[1] 山本常朝は光茂に小姓として仕え、光茂の死後出家、田代陣基の対談から『葉隠』を生み出した。
三支藩の統制
編集佐賀藩には蓮池藩・小城藩・鹿島藩の三支藩があり、藩主は初代藩主・鍋島勝茂の子や弟であったことから、当初は格式の差は無かった。しかし、光茂は支藩への統制を強め、延宝5年(1677年)には小城藩主・鍋島直能が藩祖である鍋島直茂が称した加賀守を名乗り、光茂に咎められた。また、延宝6年(1678年)には、異父弟であった蓮池藩主鍋島直之が、独断で八朔の祝いとして4代将軍・徳川家綱に太刀と馬代を献上し、光茂はこれも咎めた。さらに、支藩の家臣を陪臣として、露骨な差別待遇を取ったことから、佐賀に在住していた支藩家臣は佐賀を去っていった。三支藩は連名で光茂に抗議したが、光茂は天和3年(1683年)、三家格式を制定して三支藩を完全に支配下に置くことに成功し、さらに世禄制を実施した。
系譜
編集子女は計41人
その他
編集ドラマ『水戸黄門』(当時は「ナショナル劇場」)第5部・第24話「二人の御老公(佐賀)」(1974年放送)では森繁久彌が演じ、水戸光圀(東野英治郎)の親友であり悪友という設定となっている。ちなみに、森繁は光圀役の候補として挙げられていた。
脚注
編集- ^ 『葉隠武士道: 昭和十七年・識別番号一〇三九五七九』一路書苑、1942年、181頁。