金田誠一
金田 誠一(かねた せいいち、1947年9月28日 - 2023年3月10日[1])は、日本の政治家。衆議院議員(5期)を務めた。
金田 誠一 かねた せいいち | |
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生年月日 | 1947年9月28日 |
出生地 | 日本・北海道上磯郡木古内町 |
没年月日 | 2023年3月10日(75歳没) |
死没地 | 日本・北海道函館市 |
出身校 | 北海道函館東高等学校 |
前職 | 函館市職員 |
所属政党 |
(日本社会党→) (新党護憲リベラル→)[要出典] (平和・市民→) (新党さきがけ→) 民主党(国のかたち研究会) |
選挙区 |
(旧北海道3区→) (比例北海道ブロック→) 北海道8区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 2009年7月21日 |
在任期間 | 1979年4月 - 1993年6月 |
来歴・人物
編集北海道函館東高等学校卒業後、函館市役所に入庁。22歳のときに日本社会党に入党。函館市議会議員を経て、1993年7月18日の第40回衆議院議員総選挙に旧北海道3区から無所属(社会党推薦)で立候補し、初当選した。その後社会党に入党し、自由民主党の白川勝彦らと自社さ連立政権樹立の立役者となる。
1995年の北海道知事選挙で社会党は横路孝弘の後継となった前副知事の堀達也を新進党と共に推薦。しかし金田は自身の旧北海道3区でのライバル佐藤孝行と共に自民党推薦候補であった伊東秀子を支援したことで社会党から除名処分となる。平和・市民を経て新党さきがけに入党。1996年、旧民主党の結党に参加。この間、社会党除名から1998年の民主党(第2次)結成まで一貫して中尾則幸と行動を共にしている。
小選挙区比例代表並立制導入以後は1996年・2000年は比例北海道ブロックのみに単独で立候補し再選。事実上のコスタリカ方式で共闘した鉢呂吉雄が道知事選立候補のために北海道8区が補欠選挙となった際は、金田が辞職して補選に立候補する予定だったが、10月10日に衆議院解散となったことで総選挙となり、北海道8区から立候補する。2003年と2005年の総選挙では2回連続で小選挙区勝利で当選した。
1997年、臓器移植法の審議に際して「脳死を『人の死』と定義する」案(いわゆる中山太郎案)に反対し、対案を提出。中山案と金田案の採決は、憲政史上初めて与野党とも党議拘束を行わない中で実施された[2]。
1994年4月25日の内閣総理大臣指名選挙では当時の所属政党の社会党は新生党党首の羽田孜支持を決定していたが自身は造反し白票。1999年に民主党が党議拘束を掛けなかった国旗・国歌法に反対、2001年には、民主党が党議拘束を掛け賛成したテロ特措法に基く自衛隊のアフガニスタンへの派遣に反対し次の内閣厚労相を解任された。
2006年初頭、風邪で入院中に脳梗塞を発症。リハビリを経て同年末より国会活動を再開したが、選挙活動が困難な状態であることから2007年10月2日、次回総選挙に立候補せず今期限りで政界を引退することを表明。2009年7月21日、衆議院解散に伴い政界から引退した。
政治姿勢
編集脚注
編集- ^ a b “金田誠一さん死去 元民主党衆院議員”. 北海道新聞. (2023年3月11日) 2023年3月11日閲覧。(要登録)
- ^ a b c “元衆院議員金田誠一氏死去 75歳 道南から悼む声 | 北海道ニュースリンク”. hokkaido-nl.jp. 2024年1月22日閲覧。
- ^ 東京で金正日総書記推戴の祝賀宴/30カ国700人が参加
- ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ)
- ^ 週刊かけはし(日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)発行)JR採用差別問題で院内集会
- ^ 第142回国会 法務委員会 第19号 平成十年六月十八日
議会 | ||
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先代 平林鴻三 |
衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長 2003年 - 2004年 |
次代 荒井聰 |