野見山暁治
日本の洋画家 (1920-2023)
野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12月17日 - 2023年〈令和5年〉6月22日[1][2] )は、日本の洋画家。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。
野見山 暁治 | |
---|---|
野見山 曉治 | |
文化勲章受章に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 |
野見山 曉治 1920年12月17日 福岡県嘉穂郡穂波村 |
死没 |
2023年6月22日(102歳没) 福岡県福岡市城南区 |
出身校 | 東京美術学校洋画科卒業 |
民族 | 大和民族 |
活動期間 | 1946年 - 2023年 |
来歴
編集福岡県穂波村(現飯塚市)にて、炭鉱経営者の子として生まれる[4][5]。東京美術学校(現東京芸術大学)入学当時は故郷の炭鉱を制作の原風景とし、その後12年間のパリ生活を経て、抽象画へと変化[6]。帰国後は東京芸術大学で教え、美術学部助教授、教授などを歴任し、同大名誉教授となる。
親族
編集年譜
編集- 1920年、福岡県穂波村にて出生。父親の野見山佐一は海老津鉱業[10]、昭和炭鉱社長[11]。
- 1938年、嘉穂中学校(現嘉穂高等学校)卒業。肺浸潤を患う[12]。
- 1943年、東京美術学校洋画科卒業、直ちに応召、満州で発病し入院、その後帰国し入院[13]
- 1945年、終戦まもなく退院し、傷痍軍人制度廃止に伴う一時金を得る[13]
- 1946年、第2回西部美術展覧会で福岡県知事賞
- 1948年、妹の同級生だった内藤陽子と結婚
- 1952年、滞仏
- 1956年、サロン・ドートンヌ会員。妻・陽子29歳で夭折
- 1957年、ライ・レ・ローズのアトリエを彫刻家・高田博厚から譲り受ける[14][15]
- 1958年、第2回安井賞受賞
- 1964年、帰国
- 1968年、東京芸術大学助教授
- 1972年、同大学教授就任
- 1978年、『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞
- 1981年、芸大辞職
- 1992年、第42回芸術選奨文部大臣賞
- 1994年、福岡県文化賞
- 1996年、毎日芸術賞受賞
- 2000年、文化功労者に選ばれる
- 2014年、文化勲章受章[16]
- 2017年、練馬区名誉区民に選定される[17]
- 2018年、高田博厚展2018記念事業で堀江敏幸と対談[18][19]
- 2020年12月17日、満100歳[20]となった後も作画を続けていた[21]。
- 2023年4月15日、パブリックアート「明日の空」落成式(飯塚市総合体育館)
- 2023年6月22日、死去[1][2]。没日付にて従三位追叙[7]。
- 画業以外ではKAITA EPITAPH 残照館(旧・信濃デッサン館)の館主窪島誠一郎と協力し、戦没画学生(とくに母校・東京美術学校から召集された者達)の遺作の収集・保存に奔走、それが「無言館」設立(1997年)へ直結した実績をもつ。
関連動画
編集- 野見山暁治財団
著書
編集- 『愛と死はパリの果てに』(講談社) 1961
- 『野見山暁治の風景デッサン』(河出書房新社) 1978、増補新版 1995
- 『四百字のデッサン』(河出書房新社)1978、のち河出文庫、改版 2012
- 『さあ絵を描こう』(河出書房新社)1979、新版 1988
- 『パリ・キュリイ病院』(筑摩書房)1979、のち弦書房 2004
- 『遠ざかる景色』(筑摩書房)1982、のちみすず書房 大人の本棚 2013
- 『絵そらごとノート』(筑摩書房) 1984
- 『一本の線』(朝日新聞社) 1990 - 自伝
- 『空のかたち 野見山暁治美術ノート』(筑摩書房) 1994
- 『署名のない風景』(平凡社) 1997
- 『しま』(光村教育図書)1999 - 児童向け絵本
- 『うつろうかたち』(平凡社) 2003
- 『遺された画集 戦没画学生を訪ねる旅』(平凡社ライブラリー) 2004
- 『いつも今日』(日本経済新聞社、私の履歴書) 2005 - 回想
- 『ケムクジャーラ』(ネット武蔵野) 2007 - 児童向け絵本
- 『異郷の陽だまり』(生活の友社) 2011
- 『とこしえのお嬢さん 記憶のなかの人』(生活の友社) 2014 - 交友記
- 『みんな忘れた 記憶のなかの人』(平凡社) 2018 - 交友記
- 『野見山暁治 のこす言葉 人はどこまでいけるか』(平凡社) 2018
「アトリエ日記」
編集- 『アトリエ日記』(清流出版) 2007 - 月刊「美術の窓」に没時まで連載
- 『続 アトリエ日記』(清流出版) 2009
- 『続々 アトリエ日記』(清流出版) 2012
- 『やっぱり アトリエ日記』(生活の友社) 2014
- 『じわりと アトリエ日記』(生活の友社) 2017
- 『どうにも アトリエ日記』(生活の友社) 2020
- 『最期のアトリエ日記』(生活の友社)2023.12 - 遺著
共編著
編集- 『祈りの画集 戦没画学生の記録』(宗左近, 安田武共編著、日本放送出版協会) 1977
- 『佐伯祐三のパリ』 (朝日晃と解説、新潮社、とんぼの本) 1998 - 図版
- 『これはこれは 新川和江詩集』(玲風書房) 2000 - 画を担当
- 『無言館はなぜ作られたのか』(窪島誠一郎共著、かもがわ出版) 2010
- 『「戦争」が生んだ絵、奪った絵』(橋秀文, 窪島誠一郎と解説、新潮社、とんぼの本) 2010 - 図版
- 『舞い降りる妖精たち 川津英夫写真集』(日本写真企画)2011 - 解説担当
- 『新美南吉 でんでんむしのかなしみ』(星の環会) 2016 - 画を担当
- 『絵描きと画材屋 洋画家・野見山暁治と山本文房堂・的野恭一の五十年』(聞き手井口幸久、忘羊社) 2016
画集・作品集
編集ドキュメンタリー
編集脚注
編集出典
編集- ^ a b c “画家の野見山暁治さん死去 102歳 文化勲章受章 独自の自然描写”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2023年6月26日) 2023年6月26日閲覧。
- ^ a b c “画家で文化勲章受章者・野見山暁治さん死去、102歳…慰霊美術館「無言館」の顧問も”. 読売新聞オンライン. 読売新聞社 (2023年6月26日). 2023年6月26日閲覧。
- ^ 『平成26年度 文化勲章受章者:文部科学省』2014年11月。
- ^ 飯塚市の名誉市民飯塚市、2016年4月
- ^ 故郷・炭鉱の街、ステンドグラスに 洋画家の野見山さん朝日新聞、2016年12月21日
- ^ 尾道市立美術館「消えないもの 野見山暁治展」2013年
- ^ a b 『官報』第1030号 令和5年7月30日付7頁
- ^ "DAIGO、三島由紀夫と親戚だった…9親等「やばいね」 加山雄三は19親等". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 11 February 2020. 2023年6月27日閲覧。
- ^ 武富京子さん死去/高級クラブ「みつばち」の元ママ四国新聞社、2001/10/01
- ^ 石炭統制会設立十一月一日初委員会日本工業新聞 1941、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 第002回国会 不当財産取引調査特別委員会 第57号昭和二十三年九月四日
- ^ 肺患い なぜか「乙種」合格…洋画家 野見山暁治さん 94読売新聞、2015年08月08日
- ^ a b 自著『四百字のデッサン』 1982年
- ^ “日仏で活躍した彫刻家・高田博厚の足跡たどる 東松山市総合会館で18日まで”. 東京新聞. (2018年11月16日) 2019年2月28日閲覧。
- ^ 野見山暁治 (2014/10/20). とこしえのお嬢さん 記憶の中の人. 平凡社
- ^ “文化勲章にノーベル賞の天野さん・中村さんら7人”. 朝日新聞デジタル (2014年10月24日). 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月2日閲覧。
- ^ “練馬区、名誉区民を選定 画家・野見山暁治さん、漫画家・ちばてつやさん”. 練馬経済新聞 (2017年6月9日). 2017年6月10日閲覧。
- ^ “彫刻家高田博厚展を開催=埼玉県東松山市”. 時事通信. (2018年11月9日) 2019年2月26日閲覧。
- ^ “日仏で活躍した彫刻家・高田博厚の足跡たどる 東松山市総合会館で18日まで”. 東京新聞. (2018年11月16日)
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2020年12月18日). “画家、野見山暁治さん100歳 「広くて深い、宇宙観を描きたい」 年明けに個展も”. 産経ニュース. 2021年12月7日閲覧。
- ^ “描き続けて、100歳~画家野見山暁治~”. RKBオンライン (2021年10月24日). 2021年12月7日閲覧。
- ^ “東京メトロ銀座線青山一丁目駅「みんな友だち」”. 日本交通文化協会 (2020年10月16日). 2023年1月31日閲覧。
- ^ "100年のアトリエ 画家・野見山暁治". NHK. 2020年12月27日. 2020年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月19日閲覧。
参考文献
編集- 聞き手北里晋(西日本新聞文化部記者)『眼の人 野見山暁治が語る』弦書房、2009年10月。ISBN 4863290276
- 『ユリイカ 総特集 野見山暁治 絵とことば』 2012年8月臨時増刊号、青土社。ISBN 4791702409