野田村 (愛知県碧海郡)
日本の愛知県碧海郡にあった村
のだむら 野田村 | |
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廃止日 | 1906年5月1日 |
廃止理由 |
合併 |
現在の自治体 | 刈谷市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 碧海郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,382人 (1891年) |
野田村役場 | |
所在地 | 愛知県碧海郡野田村 |
ウィキプロジェクト |
地理
編集西は碧海郡半城土村(後に半高村、現・刈谷市)、北は中村(後に長崎村、現・知立市)や谷田村(後に長崎村、現・知立市)、東は篠目村(後に長崎村、現・安城市)や安城村(後に安城町、現・安城市)、南は高棚村(後に依佐美村、現・安城市)と接していた[1]。
歴史
編集野田村内には二本木遺跡があり、碧海台地最古の遺物である有茎尖頭器が採集されている[1]。縄文時代晩期の貝塚である野田貝塚も発見されている[1]。台地上には郷社の野田八幡宮が鎮座しており、野田八幡宮の西側には規模の大きな大徳寺があったという[1]。
天正18年(1590年)には野田城が廃城となり、信州街道を北側に移した[2]。慶長年間(1596年-1615年)には半城土村を分村した[2]。近世には池鯉鮒宿の助郷村だったが[2]、寛延年間から天明年間(1748年-1789年)にかけて負担の増加に苦しんだ[1]。江戸時代初期は刈谷藩領だったが、元禄15年(1702年)には幕府領となった[2]。宝永7年(1710年)には刈谷藩領に戻り、寛政4年(1792年)には陸奥福島藩領となり、1869年(明治2年)には重原藩領となった[2]。
廃藩置県にともなって10戸の重原藩士が二本木に茶園を開墾したが成功しなかった[2]。1876年(明治9年)の戸数は353、人口は1,410[2]。1888年(明治21年)には官営鉄道(のちの東海道本線)が開通し、線路が野田村内を横断した。1891年(明治24年)の戸数は287、人口は1,382[2]。1880年(明治13年)には明治用水西井筋が通水し、水田面積が増加した[2]。
年表
編集名所・旧跡
編集- 野田八幡宮 - 郷社。白鳳5年(7世紀)創建と伝わる[2]。洪積台地上に位置し、うっそうとした鎮守の森がある[1]。「野田雨乞笠踊り」は刈谷市指定無形民俗文化財。刈谷藩初代藩主の水野勝成が奉納した総髪の兜を社宝とする[1]。
- 昌福寺 - 浄土宗の寺院。洪積台地の北端に位置する[1]。応永15年(1408年)の創建[1]。もとは真宗高田派の永専坊という寺院だったが、浄土宗鎮西派に改宗して昌福寺に改称した[1]。かつては名古屋の建中寺の末寺だった[1]。加藤与五郎の墓がある。
- 教栄寺 - 真宗大谷派の寺院。洪積台地の南端に位置する[1]。弘長3年(1263年)の創建と伝わり、もとは天台宗の寺院だった[1]。もとは野田八幡宮の西隣にあったが、天文の兵火で焼失し、やがて現在地に移転した[1]。承応元年(1652年)に真宗高田派に改宗し、寛文5年(1665年)に真宗大谷派に改宗した[1]。
- 野田史料館 - 野田八幡宮の境内に1981年(昭和56年)に開館した[4]。江戸時代から明治時代にかけての、野田村に伝わる古文書・刀剣類・甲冑類・棟札などを保管している[4]。
- 加藤与五郎生家跡 - 「フェライトの父」と呼ばれる理学博士の加藤与五郎の生家跡。存命中の1966年(昭和41年)には顕彰碑が建立されている[5]。現在は広場として整備されている。
- 依佐美第三尋常小学校跡地 - 刈谷市南部生涯学習センターたんぽぽ前。1873年(明治6年)に中村学校として開校し、野田学校、半城土尋常小学校、野田尋常小学校、依佐美第三尋常小学校、野田国民学校、野田小学校と改称。半高小学校と合併して刈谷市立双葉小学校が開校する1958年(昭和33年)まで存続した[4]。
出身人物
編集- 加藤与五郎 - 化学者・工学者。
脚注
編集参考文献
編集- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年
- 『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』平凡社、1981年