刈谷藩
刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。
沿革
編集戦国時代、刈谷の地は徳川家康の生母・於大の方の実家である水野氏が支配していた。於大の父・水野忠政は松平氏とともに今川方の豪族であったが、刈谷城を築城し、緒川から刈谷に本拠地を移した。子の水野信元(於大の兄)は今川氏を離れ織田氏と同盟関係を結んだが、後に佐久間信盛の讒言にあい、武田勝頼との内通を疑われて殺害された。この時、一族郎党は離散し一時的に水野氏は滅亡した。しかし刈谷を領した佐久間信盛もまた信長の命令で高野山追放となり、信長は信元の弟の水野忠重に刈谷を与え、織田信忠の与力とした。小牧・長久手の戦いでは織田信雄・家康に味方して功を挙げ、その後は豊臣秀吉に仕えて伊勢国神戸に移封されたが、後に刈谷に復帰する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、忠重は東軍に与したが、西軍で美濃加賀野井城主であった加賀井重望によって殺害された。その後、子の水野勝成が跡を継ぎ、東軍に与して武功を挙げたことから関ヶ原後も所領を安堵され、大坂夏の陣では大和口の幕府軍を指揮する功を挙げ、元和元年(1615年)7月21日に大和国郡山へ移封される。
元和2年(1616年)4月3日、勝成の弟・水野忠清が上野小幡藩より2万石で入る。しかし、忠清は寛永9年(1632年)8月11日に三河吉田藩へ移封される。入れ替わりで松平忠房が3万石で入るが、慶安2年(1649年)2月28日に丹波福知山藩へ移封される。
伊勢桑名藩主・松平定勝の六男・松平定政が伊勢長島藩より2万石で入るが、慶安4年(1651年)の家光没後に定政は剃髪し、所領を江戸幕府に返上するという書状を幕府の宿老・井伊直孝に提出した。このため7月18日、幕府は定政が発狂したとして改易に処し、伊予松山藩主・松平定行に身柄を預けた。
その後、刈谷藩は廃されて幕府領となったが、9月19日に稲垣重綱が越後三条藩より2万3000石で入ることで、再び立藩する。その後、第2代藩主・稲垣重昭時代の承応3年(1654年)3月3日、従弟の稲垣昭友に3000石を分与したため、2万石となる。そして第3代藩主・稲垣重富時代の元禄15年(1702年)9月7日に上総大多喜藩へ移封される。
入れ替わりで阿部正春が1万6000石で入るが、第2代藩主・阿部正鎮時代の宝永7年(1710年)5月23日、上総佐貫藩へ移封される。
越後村上藩より本多忠良が5万石で入るが、正徳2年(1712年)7月12日に下総古河藩へ移封。
日向延岡藩より三浦明敬が2万3000石で入るが、第3代藩主・三浦義理時代の延享4年(1747年)2月11日に三河西尾藩へ移封と、短期間の藩主家の交替が相次ぎ、支配が定着しなかった。
三浦義理と入れ替わりで土井利信が2万3000石で入り、以後は土井家による支配が定着した。この刈谷における土井家の藩主にはいずれも実子がなく、藩主には他家から養子を迎えることが多かったが、9代にわたって刈谷の地を支配している。土井利徳は天明3年(1783年)に儒学者の秦子恭を招聘して藩校の文礼館をひらいた[1]。寛政2年(1790年)、第3代藩主・土井利制の時に調達金をめぐり、領村42か村による寛政一揆が発生し、幕府より村替えの処罰を受ける(2万3000石のうち1万3000石を陸奥福島藩と領地替え)。
藩校の文礼館は一時期途絶えたが、1868年(慶応4年)に再興されて1871年(明治4年)まで続いた[1]。明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主・土井利教は刈谷藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で刈谷藩は消滅し、刈谷県を経て額田県に合併された。
歴代藩主
編集水野家〔宗家〕
編集3万石(譜代)
- 水野勝成(かつなり)従五位下。日向守。
水野家
編集2万石(譜代)
- 水野忠清(ただきよ)従五位下。隼人正。大坂加番。
松平(深溝)家
編集3万石(譜代)
- 松平忠房(ただふさ)従五位下。主殿頭。大坂加番。
松平(久松)家
編集2万石(譜代)
- 松平定政(さだまさ)従五位下。能登守。御小姓。小姓組番頭
幕府直轄領
編集- 慶安4年(1651年)7月18日 - 9月19日。
稲垣家
編集2万3000石→2万石(譜代)
阿部家
編集1万6000石(譜代)
本多家
編集5万石(譜代)
- 本多忠良(ただよし)従四位下。中務大輔。侍従。側用人。
三浦家
編集2万3000石(譜代)
土井家
編集2万3000石(譜代)
幕末の領地
編集脚注
編集参考文献
編集- 舟久保藍『刈谷藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2016年。
外部リンク
編集先代 (三河国) |
行政区の変遷 1651年 - 1871年 (刈谷藩→刈谷県) |
次代 額田県 |