松平定勝

日本の戦国時代-江戸時代の武将、大名

松平 定勝(まつだいら さだかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名徳川家康の異父弟。定勝系久松松平家宗家初代。官位従四位下左近衛権少将

 
松平 定勝
松平定勝
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄3年(1560年)1月
死没 寛永元年3月14日1624年5月1日
改名 長福丸(幼名) → 定勝
神号 息長福玉命 → 東雲大明神
戒名 崇源院殿前四品羽林次将雲巌円徹大居士 → 宗源院殿前四品羽林次将雲巌円徹大居士
墓所 三重県桑名市東方の照源寺
官位 従五位下隠岐守従四位下左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
遠江掛川藩主 → 山城伏見藩主 → 伊勢桑名藩
氏族 久松氏久松松平家
父母 父:久松俊勝、母:於大の方
兄弟 久松信俊一色詮勝室、康元康俊多劫姫定勝、松姫、天桂院、女子
異父兄:徳川家康
正室たつ奥平信昌養女)
松尾君定吉定行定綱阿姫定実紀為君定房、菊君、定政、鶴君、玉君
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生誕地の坂部城

生涯

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永禄3年(1560年正月久松俊勝四男として尾張国坂部城(現在の愛知県知多郡阿久比町)で誕生。生後間もなく異父兄の松平元康(後の徳川家康)より、家門に准じて松平氏の称号並びに葵紋を賜う。異父兄・家康に従い長篠の戦い天目山の戦いに従軍した。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い蟹江城合戦に際し、二番乗りを挙げる。戦後、羽柴秀吉は家康に対して、定勝を羽柴家養子にさせるように要求した。だが、生母・於大の方の要望により、松平家に留められた。於大の方の子らのうち、長兄・康元が常に本国を留守にし、また次兄・勝俊も、かつて今川氏および甲斐武田氏へ人質として出されていた結果、両足のを失ったためであった。於大の方は自分の側に我が子を置いておけないのを寂しく思い、末子の定勝を他家へ出すことを嫌ったのである。結局、家康の次男である於義丸(後の結城秀康)が秀吉の養子になった。このため、定勝はしばらくの間、家康からは疎んじられたとも言われている。

室は家康の口利きである。長篠の戦いの後、家康は娘婿となった奥平信昌徳川家に臣従した際、武田家人質になっていたその一族を犠牲にしていた。人質には信昌の弟の他、奥平一族のが含まれていた。家康は、そのを異父弟である定勝の室に迎え入れることを決めた。それが二之丸殿である(夫人の入輿に際し、夫人の弟・奥平貞由外伯父が奥平家から転仕した)。

天正15年(1587年)3月、父・俊勝が三河国岡崎城で死去し、三河安楽寺に葬る。

天正18年(1590年)9月、下総国小南(現在の千葉県東庄町)3000を賜る。

慶長5年(1600年)、4000石を加増され、伊勢国長島城主となる。後に2万石を加増され、計2万7000石の領主となる。

同6年(1601年)2月、3000石を加増され、山内一豊に代わり遠江国掛川藩主となる。その3か月後、従五位下・隠岐守に叙任する。「隠岐守」の官名は、歴代にわたり伊予国松山藩松平家の拝領官名となる。

慶長7年(1602年)3月、山城国伏見城で家康の十男(後の頼宣)が誕生した。家康は、この男子に定勝の幼名である長福丸の名を譲るよう命じる。これにより、長福丸の名は紀州徳川家の嫡男の名となる。同年8月、母・於大の方が伏見城で死去した。同月末、伝通院の霊柩が伏見城を出立、その護衛に当たる。

同10年(1605年)5月、娘の阿姫(くまひめ)が家康の養女となり、山内忠義婚約する。家康より化粧料として豊後国山田郷1000石を阿姫に賜う。

 
照源寺の

同12年(1607年)、伏見城代に就任する。元和元年(1615年)、従四位下に昇る。

元和3年(1617年)、6万石を加増され、伊勢桑名藩11万石の城主となる。一説には翌年に家康が駿府城において薨去した際に、死の床で家康から2代将軍秀忠の相談役となるように遺言されたとも言われ、後に3代将軍・家光大老職を設置した際も生前の定勝の存在を意識していたとも言われている。

家康の死後、である秀忠から篤く敬われ、元和9年(1623年)7月、秀忠より侍従職を進められるも固辞する。その2カ月後、左近衛権少将に任ぜられる。これにより桑名少将殿と奉称される。

寛永元年(1624年)3月14日、居城・伊勢桑名城にて死去した。享年65。遺骸は桑名照源寺に葬られた。霊牌は江戸伝通院にも納められ、後に松山大林寺、今治松源院廃寺)にも祀られる。

文政6年(1823年)、11代・定通により、息長福玉命(おきなかさきたまのみこと)の神号を贈られ、松山城東雲神社を勧請し祀られる。神号は後に東雲大明神(しののめだいみょうじん)と改められる。

末裔フリーアナウンサー松平定知がいる。

系譜

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脚注

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  1. ^ 松山叢談
  2. ^ a b 寛政譜などには「母は貞友女(二之丸殿)」と記載、松山叢談には「母は側室村治氏」と記載されている。

関連項目

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外部リンク

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