里見 満俊(さとみ みつとし、生没年不詳)は、室町時代武将。官位は民部少輔

 
里見 満俊
時代 室町時代後期
生誕 不明
死没 不明
官位 民部少輔
氏族 里見氏
父母 父:里見家兼[1]
兄弟 家基満俊、満行、満氏、家成
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概要

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兄・里見家基鎌倉公方足利持氏奉公衆であり、多賀郡手綱郷の地頭であった。佐竹の乱の鎮圧に貢献したことで、家基は足利持氏によって宍戸荘小原郷の地頭職を与えられたので、弟である満俊が小原郷を管理したという[2]

文亀2年(1502年)には、子孫と見られる里見七郎義俊が現在の笠間市小原の地に広慶寺を建立している。笠間市大田町の養福寺縁起には、小原領主・里見義俊と子息の義治三郎里景里元らの名が見える。小原里見氏は天正19年(1591年)に佐竹氏に滅ぼされ、小原城も廃城となった[3]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 『続群書類従』所収「里見系図」
  2. ^ 『日本城郭全集 第3巻 千葉・群馬・茨城編』(人物往来社、1968年)
  3. ^ 笠間市「市指定文化財 [小原城本丸跡(おばらじょうほんまるあと)][1]