酒屋高塚古墳
酒屋高塚古墳(さかやたかつかこふん)は、広島県三次市西酒屋町にある古墳。形状は帆立貝形古墳。広島県指定史跡に指定されている。
酒屋高塚古墳 | |
---|---|
残存墳丘(後円部) | |
所在地 | 広島県三次市西酒屋町1035-1・2 |
位置 | 北緯34度47分26.65秒 東経132度50分59.15秒 / 北緯34.7907361度 東経132.8497639度座標: 北緯34度47分26.65秒 東経132度50分59.15秒 / 北緯34.7907361度 東経132.8497639度 |
形状 | 帆立貝形古墳 |
規模 |
墳丘長46m 高さ7m |
埋葬施設 | 竪穴式石室2基 |
出土品 | 銅鏡ほか副葬品多数 |
築造時期 | 5世紀後半 |
史跡 | 広島県指定史跡「酒屋高塚古墳」 |
地図 |
概要
編集広島県北部、三次盆地南縁の丘陵先端部に築造された大型帆立貝形古墳である[1]。墳丘は大きく削平を受け、1941年(昭和16年)には盗掘に遭っているほか[2]、1982年(昭和57年)に発掘調査が実施されている[3]。
墳形は、前方部(方形部)が短小な帆立貝形の前方後円形で、方形部を西方向に向ける。円丘部(後円部)の墳丘は2段築成[3]。墳丘外表では鉢巻状の葺石のほか、円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)が認められるが[3]、特に埴輪の表面に吉備地方特有の押圧技法が認められる点で特色を示す[4]。埋葬施設は円丘部における竪穴式石室2基(第1号主体・第2号主体)で[3]、石室構造には渡来系要素が指摘される[4]。第1号主体は1941年の盗掘の際に大きく破壊を受けているが、その際に画文帯神獣鏡・鉄製品などの副葬品が出土しており、第2号主体では調査の際に鉄製品や勾玉・ガラス小玉などが出土している[3]。副葬品のうちでは、全国で20数面の出土例がある画文帯神獣鏡、渡来系要素を持つ鉄釘が注目される[4]。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀後半頃と推定される[1][5]。広島県には帆立貝形古墳が多く、特に三次地域はその集中的な分布地域として知られており、畿内ヤマト王権との関係性を考察するうえで注目される[4][5]。特に本古墳の場合には、画文帯神獣鏡・石室(および鉄釘)・埴輪にそれぞれ畿内ヤマト王権・朝鮮半島・吉備地方との交流が示唆されており、当時の様相を考察するうえで重要視される古墳になる[4]。
古墳域は1982年(昭和57年)に広島県指定史跡に指定されている[5]。
遺跡歴
編集墳丘
編集墳丘の規模は次の通り[3]。
- 墳丘長:約46メートル
- 円丘部(後円部)
- 直径:約34メートル
- 高さ:7メートル
- 方形部(前方部)
- 幅:約24メートル
- 高さ:2.5メートル
埋葬施設
編集埋葬施設として、円丘部において竪穴式石室2基(第1号主体・第2号主体)が構築されている。それぞれの詳細は次の通り。
- 第1号主体(第1号石室)
- 第2号主体(第2号石室)
- 1982年(昭和57年)の調査の際に発見され[1]、現在は広島県立みよし風土記の丘内に移築・復原されている。石室は長さ2.72メートル・幅0.7-0.84メートル・高さ0.5メートルを測る[3]。出土した副葬品としては鉄剣、鉄釘、勾玉、ガラス小玉などがある[3]。
以上の石室2基には石材・粘土の使い方の点で渡来系要素が指摘される[4]。また鉄釘は木棺に使用されたものであるが、鎹と同様に元は日本列島にはなく朝鮮半島に系譜を追う資料とされる[4]。
-
移築第2号主体俯瞰図
-
移築第2号主体展開図
文化財
編集広島県指定文化財
編集関連施設
編集- 広島県立みよし風土記の丘(三次市小田幸町) - 酒屋高塚古墳の第2号石室を移築・復原。
- みよし風土記の丘ミュージアム(広島県立歴史民俗資料館)(三次市小田幸町) - 酒屋高塚古墳の出土品を保管・展示。
脚注
編集参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(三次市教育委員会、2012年設置)
- 「高塚古墳」『広島県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系35〉、1982年。ISBN 4582490352。
- 小都隆「高塚古墳 > 酒屋高塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)
- 『酒屋高塚古墳』広島県教育委員会、1983年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 「酒屋高塚古墳」『三次市史』 II、三次市、2004年。
外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、酒屋高塚古墳に関するカテゴリがあります。