鄭冑
生涯
編集父の鄭札に続き、親子二代で孫権に仕える。文武の資質を兼ね備え、若い頃から名を知られた。
賢良に推挙された後、建安太守に任用された。呂壱の食客が郡内で法を犯すとこれを逮捕し、獄中で死に至らしめた。これを恨んだ呂壱の讒言を真に受け、孫権もまた激怒して鄭冑を召還したが、潘濬・陳表の弁護によって釈放された。
その後、宣信校尉を拝命。遼東半島の公孫淵が魏の侵攻を受けるとその救援に向かうが間に合わず、赤烏元年(238年)[1]に公孫淵は滅亡した。
出典
編集- 陳寿撰、裴松之注『三国志』呉書 呉主伝及び注に引く『文士伝』 s:zh:三國志/卷47
脚注
編集- ^ 『三国志』魏書 明帝紀 s:zh:三國志/卷03
- ^ 『三国志』呉書 孫亮伝 s:zh:三國志/卷48