鄱陽郡(はよう-ぐん)は、中国にかつて存在した後漢末から唐代にかけて、現在の江西省北東部に設置された。

概要

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210年建安15年)、孫権により豫章郡が分割され、鄱陽郡が立てられた[1]。鄱陽郡は揚州に属し、郡治は鄱陽県に置かれた。

291年元康元年)、揚州と荊州の10郡を合わせて江州が立てられると、鄱陽郡は江州に転属した[2]の鄱陽郡は広晋・鄱陽・楽安余汗鄡陽歴陵葛陽晋興の8県を管轄した[3]

南朝宋のとき、鄱陽郡は広晋・鄱陽・余干・上饒・葛陽・楽安の6県を管轄した[4]

南朝斉のとき、鄱陽郡は鄱陽・余干・葛陽・楽安・広晋・上饒の6県を管轄した[5]

南朝梁のとき、鄱陽郡は呉州に転属した。

589年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、鄱陽郡は廃止されて、饒州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、饒州は鄱陽郡と改称された。鄱陽郡は鄱陽・余干・弋陽の3県を管轄した[6]

621年武徳4年)、唐が江南を平定すると、鄱陽郡は饒州と改められた。742年天宝元年)、饒州は鄱陽郡と改称された。758年乾元元年)、鄱陽郡は饒州と改称され、鄱陽郡の呼称は姿を消した[7]

脚注

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  1. ^ 三国志』呉書呉主伝
  2. ^ 晋書』孝恵帝紀
  3. ^ 『晋書』地理志下
  4. ^ 宋書』州郡志二
  5. ^ 南斉書』州郡志上
  6. ^ 隋書』地理志下
  7. ^ 旧唐書』地理志三