那須資村
鎌倉時代の武士。那須氏6代。
那須 資村(なす すけむら)は、鎌倉時代の武士。那須氏6代当主。
時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 建久元年(1190年)? |
死没 | 文永5年(1268年)? |
別名 | 太郎 |
官位 | 肥前守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 那須氏 |
父母 | 父:那須光資 |
兄弟 | 資村、光村、光晴 |
子 | 資家、資祗、家長、清光 |
5代当主・那須光資の子として誕生。
念仏宗に帰依し、親鸞上人の弟子となり信願房教念と号し、貞応2年(1223年)に慈願寺を創設した。78歳の長寿を保ったという。
ただし、近年の異説として那須氏の家督は光資の後はその弟・伊王野資長及びその系統が継承したために資村は家督を継ぐことが出来ず[1]、資家の代になって北条得宗家との関係から家督を回復したとする説もある[2]。
脚注
編集出典
編集- 村井章介 編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)
- 山本隆志「白河結城家文書のなかの那須文書」(改題所収「関東御家人那須家の成立と東・西での展開」山本『東国における武士勢力の成立と発展』)(思文閣出版 2012年 ISBN 978-4-7842-1601-7)