那須光資
鎌倉時代の武士・御家人。那須氏5代。
那須 光資(なす みつすけ)は、鎌倉時代の武士・御家人。那須氏5代当主。
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 資光[1]、太郎 |
官位 | 肥前守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 那須氏 |
父母 | 父:那須頼資 |
兄弟 |
光資、伊王野資長[2]、荏原朝資[2]、 味岡広資[2]、稲沢資家[2]、河田資氏[2]、 矢田治資[2]、小栗頼重室ほか |
子 | 資村、光村、光晴 |
4代当主・那須頼資の子として誕生。
建久4年(1193年)、源頼朝から下野国内に領地を拝領し、さらに那須において巻狩を催した際、接待役を務め、鎌倉幕府御家人としての那須氏の地位向上に努めた。正治元年(1199年)には領内に天性寺を創建している。
なお、建久4年に催された那須巻狩の際に、那須与一が梶原景時と諍いをおこし、出家遁世したという説があるが、『吾妻鏡』のその前後の時期の記述には「那須太郎光助」しか登場しない。