趙雲

中国後漢末期から三国時代の武将

趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、?(生年不詳) - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍。子龍[注 1](しりゅう[2]・しりょう[3])。冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯順平侯

趙雲
清代「三国志演義」趙雲
清代「三国志演義」趙雲
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 ?(生年不詳)
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
主君 公孫瓚劉備劉禅
兄弟 兄(名は不詳)
趙統趙広
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正史における趙雲

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以下は正史『三国志』(蜀書)趙雲伝(裴松之注『趙雲別伝』を含む)より。『三国志演義』の趙雲については『三国志演義における趙雲』を参照。

若き頃

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冀州常山国真定県の出身。身長八尺(約185cm)[注 2]、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州公孫瓚の配下となった[5]

事前の経緯として、中平元年(184年)に始まった大規模な農民反乱である黄巾の乱が起こると、当時常山国の王だった劉暠中国語版は国を棄てて逃走した。この反乱に乗じて少年や山賊、犯罪者などを集め盗賊団を結成した張燕率いる黒山軍中国語版(黒山賊)の襲撃により、冀州は甚大な被害を被った。その後は冀州の支配権をめぐって韓馥、公孫瓚、袁紹らの対立と、冀州では大きな社会混乱が続いていた。

初平2年(191年)頃、当時袁紹は冀州を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は義勇兵を引き連れた趙雲の来付を喜び、趙雲を嘲笑して「聞くところでは、君の州の人々はみな袁紹に付くことを願っているという。君はどうしてひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか?」と言った。趙雲は「天下はがやがやと勝手なことを言っていますが、未だ何が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したわけではありません。」と答えた。こうして公孫瓚とともに征討した[6][注 3]

劉備との出会いと別れ

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正定県「子龍広場」趙雲像

この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていった[8]青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として、公孫瓚が劉備を派遣した際に趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)[注 4]となった。その後、趙雲の兄が亡くなり、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません。」と答えた[9]

劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)頃までの趙雲の行動は『正史』にも裴注『趙雲別伝』にも記述がないため不明である[10]

劉備との再会

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建安5年(200年)頃、曹操に敗北し、追われた劉備が冀州の袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに劉備に目通りした。再会を喜んだ劉備は、趙雲と同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して秘かに募った数百人の兵を連れ、みな劉備左将軍の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備の配下になり、荊州へ随行した[11]

博望坡の戦い

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建安8年(203年)、趙雲は博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さい頃からの同郷の友人であることから劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正に推挙した。夏侯蘭は無事登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬように自分から彼に接近しないよう気遣った[12]

長坂坡の戦い

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正定県・趙雲故里「趙雲廟」阿斗を抱いた趙雲像

建安13年(208年)、荊州当陽長坂で曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて臣下数十騎と逃走した。劉備の娘2人は曹純に捕らえられたが、趙雲が劉禅(阿斗)を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、無事二人は危機を免れることができた。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

この時、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない!」と怒った。ほどなく趙雲が到着した[13]

荊州平定戦

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同じく建安13年(208年)、荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になった。この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです。」と同姓を理由に断わった。樊氏は絶世の美女であったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいた。趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者ではありません。それに天下に女は少なくありません。」と述べて、これを固辞した。その後、趙雲の警戒通り趙範は逃亡したが、趙雲は樊氏に何の未練も持たなかった[14]

阿斗奪回

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劉備は趙雲を留営司馬に任じた。そのころ、同盟国である孫権の妹・孫夫人(孫尚香)は劉備の正妻になっていた。孫夫人は孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させ軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえ、全体を引き締めるに最適の人物であると判断し、趙雲を目付役(監視役)としてこの役に任命した[15]。孫権は劉備が益州入りしたことを知ると、船を出し孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した[16]。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っているが、そちらでは「諸葛亮の命を受けて趙雲が奪回した」とある[17]

益州平定戦

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益州の劉璋と不仲になった劉備は、劉璋の攻撃を決定する。荊州に留まっていた諸葛亮たちを援軍として召し出し、荊州の留守を関羽にまかせ、建安18年(213年)、趙雲は諸葛亮・張飛・劉封と共に長江を遡って入蜀し、各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略し、成都にて諸葛亮らと合流した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注 5]

益州平定後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした。趙雲は「(前漢の)霍去病匈奴がまだ滅んでいないとして、屋敷を作ろうとしませんでした。今の国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求める時ではありません。天下が平定されるのを待ち、それぞれ郷里に帰って故郷で農業をするのが一番適切です。益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役や徴税を行なえば、彼らは自然と心服するでしょう。」と反対した。劉備はその意見に賛成し、従った[18]

定軍山の戦い

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益州北部の漢中を巡って曹操と劉備の間で戦いが起きる。建安24年(219年)定軍山の戦いにて、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に自陣へ戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出するため、取って返している[19]

しかし曹軍は再び盛り返し、趙雲らの陣まで追撃してきた。陣には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は陣に入ると門を開かせ、旗を伏せて戦鼓を止めさせた。曹軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげたところを、趙雲は雷のように戦鼓を天を震わせるほどたたき、後からで曹軍を射た。曹軍は驚き、混乱の中互いに蹂躙し漢水の中に落ち大勢が死んだ[20][注 6]。劉備は翌日の朝、趙雲の陣に自ら視察に向かい、「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至ったという。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ[22]。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。後に空城計と呼ばれる心理戦で、『三国志演義』では諸葛亮が空城計を用いて司馬懿ら魏軍を退けるエピソードがあるが、趙雲のこの話がモデルとなっている。

対呉戦争

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漢中を手に入れた劉備は漢中王を称する。この直後、関羽は荊州からに侵攻するも、曹操と同盟を結んだ孫権の裏切りによって荊州を奪われる。退路を失った関羽らは捕らえられて孫権に処刑された。建安25年(220年)には、死んだ曹操の子曹丕献帝に禅譲を迫って皇帝に即位し、後漢は滅びた。これを機に劉備は蜀漢の皇帝を称し、ここに魏・呉・蜀の三国鼎立となる。

章武元年(221年)、多くの臣下に諫められるも、劉備は呉に殺された関羽の仇を討とうとした。趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。曹操は死にましたが、子の曹丕は漢室を簒いました。このときをはずさず、これを良しとしない民心に寄り添い、早く関中を経略し、黄河・渭水の上流を確保して凶逆を討伐するならば、関東の義士は必ず兵糧を持ち、馬に鞭あて王師を歓迎するでしょう。魏をおいて、先に呉と戦ってはなりません。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか。」[注 7]と諫めたが聴き容れられず、趙雲は江州督として留まることになった。夷陵の戦いで劉備が大敗すると、趙雲は永安まで兵を進め劉備を救援した[24]

劉禅の即位

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その後、病を発し病床に臥せた劉備は、章武3年(223年)4月に白帝城にて崩御した。同年5月、元号を建興に改め、子の劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進[注 8]し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

第一次北伐

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建興5年(227年)、諸葛亮と共に曹魏への侵攻(北伐)に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡曹真を郿に派遣し、曹真は箕谷に大軍を派遣してこれに当たらせた。趙雲と鄧芝に別動隊を率いて囮としてその相手をさせ、その間に諸葛亮は本隊を率いて祁山を攻撃した。南安天水安定の三郡が寝返り、蜀軍はこれを手に入れた。その後、箕谷では曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱小だった[注 9]ので敗北したが、兵をよく取りまとめて固守したので大敗にはいたらなかった。街亭では馬謖張郃に撃破され大敗し、蜀軍は敗戦。手に入れた三郡を手放し、全面撤退となった。軍が撤退すると諸葛亮は「街亭では命令に背かれる誤ちがあり、箕谷では不謹慎のための失策を犯し、その責任は任命した私にあります」と上奏し、諸葛亮は自身の位階を三階級下げ右将軍に降格、趙雲は鎮軍将軍に降格された[注 10]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「禄を貶した」との記録がある[30]。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている[31]

この退却時、趙雲が自ら殿(しんがり)を務め、兵を巧みに取りまとめたので軍需物資を殆ど捨てずに済んだ。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでも纏まることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊は纏まりを失わず済んだのです。」と答えた[32]。諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の下賜とされますようお頼みします。」と進言した。この趙雲の進言に、諸葛亮は大いに喜んだ[33]

最期

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建興7年(229年)卒。長子の趙統が後を継いだ。

死後

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32年後の景耀4年(261年)3月、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統・黄忠は景耀3年秋に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。劉禅は詔勅で、「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している。」と述べた[34]。大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した[35]

「考えますに、趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです。
謹んで諡法を調べますに、柔順・賢明・慈愛・恵愛にあふれることを『』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです。」

逝去時期の違い

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正史では「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣馬玉閻芝…(略)…を失った」[36]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなっていることになっている。そのため『後出師表』について真作か偽作かの結論が出ていない。

墓地

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正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある。

  • 大邑趙雲墓:趙雲の墓としてもっとも有力視されている墓。錦屏山(銀屏山とも)の南麓に位置する[37][38]。趙雲が晩年、この地に駐屯、または領地とし、土城や羌族を監視する台(望羌台)を築き、羌族の侵入を防いだとされる[39][40]。墓の前に建てられた子龍廟は末の戦争で破壊された。1665年、大邑知県李徳耀が趙雲墓のために祠堂と碑を建て[41]、その後も何度かの改修、拡張工事が行われて1930年には大邑県長解汝襄が県民と一緒に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などからなる壮観な建造物になった。その後は社会混乱や四川地震で深刻な被害を受けたが、現在政府により修復作業が進められており、2025年下半期に一般公開が予定されている[42]
  • 南陽趙雲墓南陽市南三十里に存在した墓。もっとも古い記録で天順5年(1461年)『大明一統志』に記述がある[43]。盗掘に遭い、現在は碑文の拓本が残っている。以下は墓にまつわる伝説[44]である。
順治帝は自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、二弟の関羽が夢に現れ、「三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、三種の神勅を発した。第一は全国の関帝廟を大改修すること、第二は遼陽で張飛の生まれ変わりを探すこと、第三は南陽で趙雲の生まれ変わりを探すことであった。南陽の知県は3か月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。

この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍(あだ名:趙大個)という農民がいた。 知県は趙大個の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、趙大個の名前を聴いた知県は「””に””を足すと、”(运)”(うん)=”(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、服を着替えさせ、食事をするように命じ、明日都へ向かうことを告げた。事情を知らない趙走軍は、都に行くということは傷害の罪で処刑されるのだと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。

趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、ただただ四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった。
  • 臨城趙雲墓2005年5月19日、臨城県麒麟崗から光緒戊戌(24年(1898年))の『漢順平侯趙雲故里』の碑が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[45]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされている[46]。臨城の趙雲墓については、1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際に臨城県澄底村の西1.3キロで発見された[47]が、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が、明代に遡る『大明一統志』や現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記や歴史書には見つかっていないため、研究者は趙雲の墓である可能性は低いとみている。 民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、墓の近くに廟も建っていない。 以下はその理由[48]とされている。
劉禅は趙雲の蜀漢建国への功績に感謝し、成都から臨城まで72の墓の建設を命じた[注 11]。これは後世の墓荒らしを防ぐためでもあった。そのため、「一年三百六十日、毎月毎日、趙雲を埋葬する」という故事が澄底村で代々受け継がれてきた。乱木の溜め池(乱木水庫中国語版:子龍湖)一帯には、趙雲の墓と呼ばれるこのような大きな墓が20以上ある。 「乱木」は旧称「乱墓」と言い、墓を造る者が人目を欺くために、意図的に墓を荒らしたという意味で、これが乱木村の名前の由来である。

家族

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  • :名は不詳。『趙雲別伝』に記載。趙雲が公孫瓚の配下時代に亡くなっている。『三国志演義』には登場しない。
  • 趙統:長子。趙雲の死後、後を継いだ蜀漢の武将。『三国志演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 趙広:次子。蜀漢の武将。沓中での戦いにて戦死。『三国志演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 関樾:趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。
  • 正史では妻の名は不詳だが、民間伝承や『演義』関連作品では様々な妻が登場する。(詳細は#演義関連作品#民間伝承・伝統芸術参照)

官職の変化

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正史(別伝含む)での官職の変化
元号年 西暦 役職・官職 注釈 他の就任者 出典
初平3年-?年 192年-? 主騎 [注 4] 不明
建安13年-18年? 208年-213年? 牙門将軍 魏延 [49]
偏将軍 関羽 [50]
建安13年-?年 208年-? 桂陽太守 趙範 [51]
留営司馬 なし
建安18年-章武3年 213年-223年 翊軍将軍 [注 5] 霍弋 [52]
章武元年-?年 221年-? 江州督 李福 [53]
建興元年-7年 223年-229年 中護軍 [注 8] 費禕 [54]
建興元年-?年 223年-? 征南将軍 [注 12] 劉巴、姜維 [55]
建興?年-6年 ?-228年 鎮東将軍 劉備、劉琰 [56]
建興6年-7年 228年-229年 鎮軍将軍 許靖、陳祗 [57]

趙雲別伝について

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「別伝」についての解説

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「別伝」とは、主に後漢時代から東晋時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[58]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎や佐著作郎の課題として書かれた[59]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[60][61][62]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[63]裴媛媛によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[64]。だが時には、『孫資別伝』に対して裴松之が指摘しているように[65]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[66]。また顔師古が『東方朔別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[67]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[68][69]

史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[70]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素[注 13]であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。

採用者および肯定派の見解

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  • 裴松之:『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
  • 司馬光:『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
  • 渡邉義浩:「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[71]
  • 矢野主税:対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[72]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[73]

否定派の見解

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  • 何焯:趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[74]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応である[注 14]として、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[77]

その他

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  • 李光地中国語版:「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか」と疑問を呈している[78]

人物

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正史『三国志』趙雲伝は約400字ほどの簡素な記述しかなく、蜀の記録の抜けもあり、趙雲の事跡や人物についての推測は正史のみでは難しいところがある。裴松之注『趙雲別伝』には、趙雲について正史のおよそ3倍の量の記述が残されており、正史では分かりづらかった趙雲の事跡(公孫瓚から劉備の配下へと変わった経緯など)や人柄について詳細が描かれており、そこから以下の推論がされる。(別伝については前述の#趙雲別伝についてを参照)

  • 出自南越王の趙佗は趙雲と同じく常山国真定県の出身者であり、趙雲と同姓でもある。前漢時代、趙国国相陳キが反乱を起こし、高祖・劉邦がこれを鎮圧した後に東垣県を「真定県」と改名すると、南越を支配していた趙佗はすぐに劉邦に服従した。 劉邦の死後、文帝と趙佗は和睦を続け、「趙佗の親族の墓のために真定に守邑(警備や世話をする人々が住む集落)[79]を設け、毎年祭祀を行った」と、『漢書』に残されている[80]
    これらの事実から、趙春陽は真定に趙家の郡望(郡中の名望の族)[81]があったことを指摘し、趙雲もこの真定の郡望の出であろうと論じている[注 15]。その論拠として、『別伝』に記述されている趙雲の会話内容から語彙の多さと明確な論理が見られることから、幼少期に優れた文化教育を受けていた[注 16]と考え、また、劉備の主騎(騎兵隊長)を担当することになったのも、後漢末時代の貴族の子供たちは家族と国を守る義務があるため、幼少期から厳しい乗馬や射撃の訓練を受けていた[注 17]ので、趙雲も彼ら同様に幼少期から訓練を受け、馬術に優れていたからであろうと述べている[87]。ただし、趙佗と趙雲の関係について記された史書は見つかっていない点に注意が必要である。

評価

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成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。(左は孫乾

歴史的評価

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後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した。清代に作られた成都武侯祠の趙雲の塑像が、文官の服を着せられているのはこのためである。清代は『三国志演義』の流行により、更に高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、武将廊に筆頭の位置に置かれている。

康熙61年(1722年)には歴代帝王廟中国語版に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注 18]小林瑞恵は、趙雲が従祀名臣に列したことについて、趙雲を不忠者と評しなかった『三国志演義』の版本の流行による影響の可能性を指摘している[89][注 19]

個人の評価

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  • 陳寿:「黄忠・趙雲は、共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰滕公の輩であろうか?」[注 20]
  • 楊戯:「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、勲功をあげた猛将であった。」[91]
  • 朱黼:「(対呉戦争の諫言について)それは深く明確であると言える。 天下の全体を知っている。」[92]
  • 蕭常中国語版:「趙雲は勇猛の臣でありながら、田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したり、国家に対する明確な理論を築き上げたが、これは諸葛亮でも考えに至らないことだ。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?」[93]
  • 陳造中国語版:「趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を勇敢な男だと言った。いわゆる死から生へ、敗北を成功へと変えたのだ。」[94]
  • 李光地:「趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう。」[95]
  • 范光宙:「趙雲の一部始終の見解は大臣の器量であり、ただの名将ではない。」[96]
  • 易中天:「建安二十四年、劉備は漢中王を称し、四将を封じた。前将軍関羽、右将軍張飛、左将軍馬超、後将軍黄忠。趙雲はいない。 歴史上、五虎大将軍はなく、四虎大将軍だけで趙雲はいつも雑号将軍だった。 趙雲はとても悔しいですね。それは間違いなく悔しいことですね。」[97]
  • 宋徵璧中国語版:「張遼と趙雲は敵の要塞に出入りして、英雄的な精神と猛々しさで敵を抑止し、危害を阻止した。これは将軍のやり方ではない。」[98]
  • 大唐平百済国碑銘:『趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、名声は百代に渡る。』[99]

三国志演義における趙雲

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「長坂坡の戦い」

『三国志演義』とは、『三国志』や元雑劇、『三国志平話』などを基にして、中国代に書かれた長編白話小説。著者は羅貫中の手によるものと伝えられている。趙雲に関しては、正史『三国志』趙雲伝および裴松之が注釈に引く『趙雲別伝』のエピソードからそのまま採用、または引用されており、キャラクター造形もこの『別伝』を元とし、そこに武力面が更に強調され、「知勇兼備の槍の使い手」として活躍する。初登場時はまだ少年で、「身長八尺、濃い眉に大きな眼、広い顔に重なった顎、容貌は立派で、威風があり凛々しい姿」[100]となっている。「義に厚くプライドの高い関羽」「乱暴者の張飛」と比べ、「冷静沈着な趙雲」は、諸葛亮から与えられる任務を素直に着実にこなすので、劉備、諸葛亮の双方から信頼され、物語中の重要な任務では特に重用されている。関羽・張飛・馬超・黄忠と並んで五虎大将軍(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。

『演義』を元にした後世の創作作品では、清代の京劇で確立した『白袍を着た若い美形の儒将』のイメージが多大な影響を与え、張国良長編平話『三国』などの小説・説話内での描写や、TVドラマ『三国志演義』『三国志 Three Kingdoms』の趙雲像にも見られる。元の『演義』では英雄的な男性らしさを強調した偉丈夫の設定だったのが、時代推移によって美的概念が変わっていき、これら趙雲のイメージ像は現代まで連綿と続いている。(詳細は#演義関連作品を参照)

主なあらすじ

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為求仁君

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タイ語版「三国」 趙雲と劉備 (Hem Vejakornフランス語版

正史とは違い、少年・趙雲は最初袁紹に仕えていた。しかし袁紹には国や民を救済する心がない人物だと判り、公孫瓚の元へ向かった。公孫瓚が袁紹配下の文醜に襲われていたところに遭遇し、公孫瓚を助けるため文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は馬を返して退却した。公孫瓚は慌てて趙雲の元に駆け寄り感謝して、臣下に迎え共に陣営へと戻った。

その後、公孫瓚配下の将として活躍をするが、界橋の戦いにて袁紹軍の追撃に遭ったところで劉備・関羽・張飛たちが公孫瓚軍の加勢にやってきた。公孫瓚は劉備に礼を言い、趙雲を引き合わせた。この時、劉備と趙雲はお互い惹かれあい、離れがたく思った。別れの日、二人は互いの手をとり、涙を流しながらいつか再会できるようにと挨拶を交わした。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は袁紹からしきりに臣下になるよう招かれるが、これを固辞して各地を放浪の末、ついに再会した劉備と趙雲は大いに喜んだ。こうして趙雲は正式に劉備軍の配下となった。

単騎救主

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タイ語版「三国」 阿斗を託す糜夫人と趙雲

曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は、劉備を慕う民衆と共に逃げ出すが、長坂坡で追いつかれ、混乱の中で趙雲は劉備の妻子を見失ってしまう。ひとり戦場を駆け回っていた所、敵将の夏侯恩に遭遇する。これを討ち取り、夏侯恩が曹操から授かっていた宝剣『青釭剣(せいこうけん)[注 21]を手に入れた。さらに戦場深く入ると、阿斗(劉禅)と糜夫人を発見した。糜夫人は足手まといになることを恐れて趙雲に阿斗を託し、井戸に身投げしてしまう[注 19]。趙雲は曹操軍に糜夫人の亡骸を盗まれないよう、土塀を崩して井戸を覆い、阿斗を懐に抱えて、曹操軍の大軍の中を単騎で駆け抜けた。

曹操は縦横無尽にひとりの将が戦場を駆け巡る姿を眺め、「あれは誰か?」と側近に聴いた。曹洪が大声で問うと、趙雲は「我こそは常山の趙子龍だ!」と答えた。曹操は趙雲を手に入れたくなり、「矢を射てはならぬ、生け捕りにせよ!」と命じた。これが幸いして、趙雲はこの難から逃れることができた。

それでもまだ追ってくる敵将を次々に青釭剣で討ち取り、無事に劉備の元へ戻ることができた。劉備の前にひざまずいて、趙雲は泣きながら糜夫人の死を告げ、阿斗を差し出した。劉備は阿斗を受け取ると、地に放り投げて「おまえのような子供のために、大事な将軍を失うところであった!」と言った。趙雲は驚くも劉備の言葉に感激し、「肝脳地にまみれさせても、このご恩に報いることはできません。」と涙した。

計取桂陽

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三国演義(繡像本)挿画「趙子龍計取桂陽」

劉備は荊州南部の四郡(武陵長沙桂陽零陵)の攻略へ動き出す。桂陽攻略では趙雲が名乗りをあげるが、これに張飛も名乗りをあげて二人は喧嘩になる。諸葛亮は二人にくじを引かせて、結果趙雲が向かうことになった。桂陽太守の趙範は降伏しようとするも、臣下の陳応が反対したので、兵を与えて攻撃させた。しかし陳応はあっさり撃退されてしまったので、趙範は降伏を願いでた。

趙範は趙雲と同じ姓で真定出身、同年生まれで趙雲の方が4か月生まれが早かったので、趙雲を兄として、二人は義兄弟のちぎりを結んだ。酒宴が開かれ、趙範は一人の美しい女性を呼び入れた。趙雲がこの女性は誰なのかと問うと、趙範の亡くなった兄の嫁の樊氏と言う。趙範は「兄嫁は再婚するのに三つ条件を述べました。一つ目は名声を轟かせていて顔立ちが優れていること、二つ目は亡き夫と同じ姓で、三つ目は文武に優れ知性を備えていることです。」と言って、条件を満たしている趙雲に娶るよう勧めた。趙雲は「おまえの兄嫁はわたしの兄嫁でもある。何故道理に背くことができるのか!」と大いに怒り、趙範を殴り倒して城を出て行った。

趙範は臣下の陳応と鮑隆を呼びつけ、偽りの投降をして隙をついて趙雲を捕らえる計略を実行するも、趙雲に見抜かれ斬り捨てられてしまった。趙雲が兵を引き連れ桂陽城に向かうと、慌てた趙範は城から逃げ出すが捕らえられてしまう。桂陽の陥落を知った劉備たちは、趙範がやったことは好意からで、敵意がなかったことを知った劉備は、樊氏を娶るよう趙雲に薦めるも、劉備の名声が落ちることを理由にこれを固辞したので、劉備は感嘆した。そして趙範を解放してそのまま桂陽太守にして、趙雲を賞した。

甘露寺

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劉備は孫権の妹(孫夫人・孫尚香)との縁談を孫権から薦められて、この申し出を受けることにした。趙雲は呉に向かう劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による、劉備を暗殺するための罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って、数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にもふたりの婚姻を認められ、無事に劉備と孫夫人は夫婦となって荊州へ戻ることができた。

截江救主

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趙雲「截江救主」

孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届けて江東に連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出して荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人とともに阿斗がいないことに気付き、慌てて孫夫人の船を追いかけた。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。見回りから帰ってきた張飛も慌てて駆けつけて、呉の船に飛び乗って阿斗だけは返してもらって孫夫人は見逃すことにした。こうして無事に阿斗を連れ戻すことに成功した。

虎威将軍

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諸葛亮は曹操軍の北山の食料を焼き払って輜重を奪うため、黄忠と趙雲を派遣することにした。二人はくじを引いて黄忠が先鋒、趙雲が陣営の守りについた。約束の時刻になっても黄忠が戻らなければ、趙雲も出陣する取り決めをした。約束の時刻になっても黄忠が戻ってこないので、張翼に陣営の守りをまかせ黄忠の元へ向かうと、黄忠たちが張郃と徐晃に囲まれていたので救出した。曹操は諸将にあの将は何者かを問い、趙雲だと知ると「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじるな!」と伝令を出した。

曹操軍が本陣に迫ってくると、趙雲は張翼に門を開けたままにさせ、弓弩兵を陣営外の壕に伏せ、陣営内の旗を倒してひとり槍を手に門外に出た。張郃たちは兵を率いて追いかけてきたが、開かれた門の前にただ一人、馬に乗った趙雲が陣営の外に構えて立っているという異様なありさまに警戒した。そこへ曹操が自らやってきて前進するよう促し、兵が陣営前に大声で走り出るも趙雲はまったく動じない。逃げようとした曹操軍に、趙雲は合図すると弓弩がいっせいに放たれ、曹操軍は混乱して互いに踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。こうして蜀軍は曹操陣営を占領し、輜重を奪うことができた。現場にやってきた劉備は、諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!

諫阻東征

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関羽が呉に殺されたため、劉備は弔い合戦をすると詔を下した。趙雲と諸葛亮は共に諫めて止めようとする[注 22]も、劉備はこれを聴きいれず、対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ暗殺されてしまった。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計で大敗を喫するが、江州にいた趙雲が救援に来たので陸遜は軍を撤退させた。劉備を救った趙雲は白帝城へ逃走した。この戦いで多くの将兵が戦死し、劉備は心労から病にかかってしまう。ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓った。

力斬五将

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タイ語版「三国」 姜維と戦う趙雲

諸葛亮は北伐を進める前に後顧の憂いを断つべく、度々反乱が起きる南蛮の地を平定すべく征伐を開始し、趙雲もこれに同行する。馬謖の「心を攻めるは上策、城を攻めるは下策」の案を採用した諸葛亮は、南蛮王の孟獲を七度捕らえて七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心から蜀に降伏したので、南蛮の地を平定することができた。

帰還した諸葛亮は、劉禅に出師表を奏上して、ついに北伐に取り掛かる。この時老兵となっていた趙雲は、人選からもれたので抗議の声をあげた。諸葛亮は高齢を理由に説得するも、「戦場で死ぬことができれば、わたしは後悔はありません。」と聞かなかった。鄧芝が趙雲と共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので、精鋭五千と副将十人をつけて出発させた。趙雲は韓徳の八万の軍勢とぶつかり、韓徳の息子たちをつぎつぎに討ち取った。鄧芝は「まさかすでに七十歳になっているとは思えません」[注 23]と趙雲の猛将ぶりを称えた。韓徳からの報告を受けた夏侯楙は、自ら軍勢を率いて攻め込んだ。趙雲は韓徳を討ち取り、鄧芝の兵も攻撃すると、夏侯楙の軍勢は撤退したが、程武は逃走を装って伏兵がいるところまで趙雲を誘い込み、幾重にも包囲する計略を進言した。趙雲は深追いしてこの計略にはまってしまう。孤立し、老いを実感した趙雲の元へ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が助けに現れた。若い二人の力のお蔭で、趙雲は窮地を脱することができた。

失街亭

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馬謖の敗北により、諸葛亮の退却命令を受けて趙雲らは箕谷から軍を退かせようとするが、魏軍の猛追を抑えるため、鄧芝が本隊を率いて先に退却し、趙雲は別動隊を率いて殿になった。魏軍は山坂の後ろから現れた趙雲の軍勢に驚き、蘇顒他、次々に敗れて残った兵も散り散りになった。趙雲は無事に諸葛亮の元へ帰還したが、趙雲の軍が一人も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が鄧芝に問うと、「子龍将軍は一人で殿となられたので、わたしは兵を率いて先行いたしました。子龍将軍が敵をひるませたおかげで、わが軍は物資を放棄しなかったのです」と答えた。諸葛亮は倉の中から金を趙雲に贈り、絹を兵たちへ褒美とした。しかし趙雲はそれを辞退し、「三軍に何ら功はなく、この褒美を受け取ってしまうと丞相の賞罰が明確ではないことになります。ひとまず庫におさめて、冬になってから諸軍に配ってください。」と述べた。諸葛亮は劉備が常日頃から趙雲の徳を称えていたことを思い出し、今改めて敬服するのであった。

一陣大風

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再び北伐を進めるべく、諸葛亮は宴会を開いて諸将と打ち合わせをしていた時であった。突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまった。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広がやってきて、父が昨晩病没したと拝して泣きながら言った。諸葛亮は「今年多くの将を失ってしまった。子龍どのも亡くなり、国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった。」と泣いて言った。劉禅もまた、その言葉を聞くと声をあげてひどく泣いた。「朕は幼いころ、子龍がいなかったら乱軍の中できっと死んでいたであろう。」劉禅は趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屏山の東に埋葬して、廟堂を立てて春夏秋冬、祭りを行うよう命じた。

解説

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上野隆三は、『演義』における趙雲像について、『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さが新たに多く書き加えられたことで、文武両道の儒将のイメージが作り上げられたと述べている[107]。また五虎大将の序列について、先述した『演義』の操作により趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版の編者である毛宗崗中国語版が、史書では5番手の趙雲を3番手まで引き上げたのではないかと論じている[108]

『演義』では武将が一騎打ちを行うシーンが頻繁に描かれるが、趙雲は一騎打ちでの勝利数が最も多い25勝となっており、次いで関羽16勝、張飛14勝、呂布7勝となっている。『演義』は蜀勢力を善玉とし、物語の主人公として描いているため、蜀の武将で他の五虎大将より長生きだった趙雲が、結果的に最多勝利者となったと推測される[109]

演義関連作品

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京劇三国演義「長坂坡」武生の趙雲

以下は主な『演義』を元にした関連作品。

演劇

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  • 京劇:清代に北京で生まれ発展した演劇戯曲(詳細は該当記事を参照)。『演義』も演目として取り上げられた。趙雲は小武生、武生、武老生(立ち回りを得意とする武将)として登場し、髭のない端正な容姿(『失街亭・空城計・斬馬謖』[110]では武老生(老兵)なので髭をつける)、性格は胆大心小(大胆であるが、慎重で几帳面)、演者は力強く安定した姿と大きな声で演じる。白と青を基調とした衣装に、赤を用いているのが特徴。桃園の四番目の兄弟「四弟」と呼ばれる。主な登場演目は『磐河戦』『借趙雲』『長坂坡』『甘露寺』『截江阿斗』など。趙雲役の演者として有名なのは、父の楊月楼中国語版と親子二代で趙雲を演じた京劇巨匠の一人楊小楼中国語版で、銀槍を持ち『長坂坡』での華麗な立ち回り姿から「活趙雲」「活子龍」と呼ばれ絶賛された。

    この京劇の趙雲のイメージ像(白靠(白い鎧)、白袍といった「白」のイメージカラーや、銀槍を抱えた若い美形の儒将)は後に各地の民間伝承や創作作品に多大な影響を与え、趙雲の愛馬とされる白馬(白龍、または白龍駒)の伝承にも影響を与えたと考えられる[111](詳細は#民間伝承・伝統芸術の白龍参照)
    元雑劇では趙雲の慎重さと几帳面さが強調され、趙雲の演者には特にその大胆さと几帳面さを示すことが求められたという[112]。初期に広まった物語では、趙雲は諸葛亮よりも慎重な性格をしており、「城攻めの際に、いつ出発し、いつ食事をし、いつ川を渡って城を攻めるか、諸葛亮が用意した綿密な計画通りに従うよう求められ、趙雲は兵を率いて出発する。直後、諸葛亮はその計画の時刻では、川が満潮の影響で増水し、渡れないという重大なミスに気づいた。しかし趙雲は川の増水の事を知っていたので、事前に筏を用意し、計画通りに問題なく完了した。」[113]となっている。

    以下は京劇の主な登場演目とその内容。
京劇・主な演目
演目 内容
磐河戦 『演義』第7回「袁紹磐河戰公孫 孫堅跨江擊劉表」より。
袁紹から離れ、公孫瓚を助ける話。
借趙雲 『演義』第11回「劉皇叔北海救孔融 呂溫侯濮陽破曹操」より。
劉備が援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす[114]
長坂坡 『演義』第41回「劉玄德攜民渡江 趙子龍單騎救主」より。
曹操の大軍から単騎で阿斗を救う、趙雲の代表的な演目。
甘露寺 『演義』第54-55回より。演目名は『龍鳳呈祥』とも。
劉備の結婚に趙雲が護衛で従う話。場面によって鎧姿から白の衣装に着替える。
截江阿斗 『演義』第61回「趙雲截江奪阿斗 孫權遺書退老瞞」より。
阿斗を連れ呉に帰ろうとする孫夫人から阿斗を奪回する。趙雲の代表的演目。
その他『取桂陽』『黄鶴楼』『子龍護忠(陽平関)』『鳳鳴関(斬五将)』『天水関(収姜維)』『失空斬』[110]

小説・説話

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  • 三国志後伝酉陽野史による蜀漢滅亡後、劉備や趙雲ら子孫の活躍を描いた作品。
  • 反三国志演義周大荒が新聞『民徳報』にて連載した作品。趙雲と馬超の二人が主人公。蜀漢が三国を統一するという話になっており、作品内で趙雲と、馬超の妹の女武将・馬雲騄が結婚し妻となる。
  • 説話三国演義袁闊成中国語版による三国志演義の説話作品。『三国志』『三国志演義』の他、全国の三国故事などを研究した重厚な作品になっている。京劇のように張飛らから「四弟」と呼ばれたり、中性的な白面の美丈夫になっている。
  • 長編平話三国:張国良による平話作品。1983年から全20巻を予定されていたが、作者の体調不良により14巻で終了となった。袁闊成の作品と同様、白馬(鶴頂白龍駒)と銀槍(亮銀槍)を持ち、趙雲の容姿の良さについての描写がさらに強調されている。劉備の結婚話(甘露寺)で護衛の趙雲を見た呉国太が、もう一人娘を生んでいたらこの若くて美しい将軍にも娶らせたのに、と、娘を二人産まなかった自分に腹を立てるといったように、作者による独自展開や解釈、設定が盛り込まれている。

映像作品

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  • 三国志 Three Kingdoms:2010年に制作されたTVドラマ。全95話。1994年版テレビドラマ『三国志演義』のリメイク的作品(詳細は該当記事を参照)。本作でも白袍姿に銀槍を持ち、「白馬に乗った美丈夫の若武者」像が踏襲されている。『演義』では劉備と趙雲は一度別れることになるが、本作では劉備が徐州陶謙の救援に向かう際に、公孫瓚から趙雲を借りたまま戻らないので、そのまま劉備の配下になる。また、生死不明になった桃園の三兄弟たちが再会した際には、趙雲も加えて新たに桃園の誓いをして四兄弟になったり、桂陽を巡る趙範との戦いでは、『演義』では趙範が降伏しようとすると臣下たちが反対するが、本作では逆で、趙範は臣下たちから降伏するよう諫められても諦めない頑固な人物になっており、鮑隆(本作では鮑竜)が様々な策を献上して趙雲を倒そうと奮闘するなど、コミカルなオリジナル展開が繰り広げられる。
    前作の1994年版では、趙雲役は壮年期と老年期では違う俳優がそれぞれ演じたが、本作では趙雲役の聶遠(ニエ・ユエン)が老けメイクで老年期も演じている。聶遠は記者のインタビューにて、「年齢幅の大きなキャラクターを演じるのは俳優にとって大きな挑戦であり、特に趙雲の老年の風貌が好きだ。」と語っている。聶遠は当初、呂布役を演じたかったが、監督の高希希中国語版(ガオ・シーシー)に身長を理由に断わられたという[注 24]。「自分が俳優でなければ三国演義で好きなキャラクターは趙雲だが、趙雲は完璧すぎるキャラクターなので演じるのが難しく、俳優としては呂布のような欠点のあるキャラクターを解釈したい。」と同インタビューで語っている[115]。孫権役の張博中国語版(チャン・ボー)は、趙雲役か孫権役のどちらかを選ぶことができたといい、子供の時の三国志ごっこでは趙雲役ばかりやっていたが、大人になると二面性を持った孫権の方に演じ甲斐を感じたため、孫権を選んだと語っている[116]
    2024年5月23日、銅工芸ブランド銅師傅10周年企画『銅師傅×五虎上将・五虎上将十四年後再聚首(再会)』にて、五虎大将を演じた俳優5名が集い、同社の商品の紹介と共に、当時のドラマに寄せた衣装姿を披露した[117]

ゲーム

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  • Three Kingdoms Zhao Yun:2024年に中国で製作された趙雲を主人公としたアクションRPG。『演義』関連作品ではさまざまな趙雲の妻が登場しているが、本作では趙範の兄嫁の樊氏と民間伝承の妻・孫軟児(後述)を足したような人物の樊娟、『反三国志演義』の馬雲騄、本作オリジナルの公孫瓚の娘・公孫玥が登場する(詳細は#外部リンク先参照)。※2024年6月時点では日本語未対応。

民間伝承・伝統芸術

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歌川国芳による見立絵「五将軍見立五人男 趙雲」
 
演劇に用いられる趙雲の仮面
 
「常山戦鼓」パフォーマンス

古跡などは南宋以前からのものがあるが、民間伝承は主に清代以降の物が多く、内容も『演義』の影響が色濃く見受けられる。

人物

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  • 孫軟児:民間伝承に登場する妻(詳細は該当記事を参照)。映画『三国志』(2008年)で軟児の名前が採用されており、塚本靑史の小説『趙雲伝』では正妻の名に採用されている。
  • 李翠蓮河北梆子劇『青釭剣』の演目にて趙雲の妻として登場する。長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚する。塚本靑史の小説『趙雲伝』では趙雲のの名に採用されており、正妻の孫軟児からは愛称「翠翠」(スイスイ)と呼ばれ、趙雲が困惑するほど仲睦まじい二人が描かれる。
  • 関銀屏:関羽の娘がモデルの人物。趙雲に弟子入りし、師事して武術を習う。

愛馬

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  • 白龍:(はくりゅう)、もしくは白龍駒(はくりゅうく)という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。
    「白龍(駒)」の名は1980年代前後の創作で、『三国志平話』『演義』では白馬に乗る趙雲像もまだ確立されていなかった。京劇で確立された趙雲の『白』のイメージが民間伝承や創作作品に影響を与え、趙雲の愛馬=白馬となり、「白龍(駒)」の名が作られ広まったと考えられる[111][注 25](詳細は#演義関連作品の京劇参照)。袁闊成の編著『趙子龍』では「龍種」の「玉蘭白龍駒」、張国良の長編平話三国では「鶴頂白龍駒」と名付けられている。白龍の話は映画レッドクリフで採用されている。
  • 子龍池:または洗馬池。四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。「子龍洗馬池」とも。白龍とともに趙雲が傷を癒したという。その後は邸宅の所有者が何度も変わり、その都度改築などを経て、1950年頃には池は埋め立てられ、「子龍塘街」から現在の「和平街」に改名された。跡地にある和平街小学校に『漢順平侯洗馬池』の碑がある。以下は子龍池にまつわる伝承[119]である。
南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は、常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して兵を鼓舞し、蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。
後日、成都の人々はみな、「あれは趙子龍が顕聖して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。人々は子龍池で馬を洗い、その池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。

武具

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  • 涯角槍:(がいかくそう)。『三国志平話』に書かれる。長さ九尺(約3メートル)あり、「生涯に敵う者なし」という意味で名付けられている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。『演義』では採用されていないが、ゲームなどの関連作品で趙雲の武器として登場する。
  • 金牛山の剣:『古今刀剣録』に記される。章武元年(221年)劉備が金牛山から鉄を採取し、長さ三尺六寸の剣を八本鋳造したうちの一本を趙雲に与えたという[120]
  • 常山戦鼓戦国時代に始まり、明時代に隆盛した戦鼓。正定の人々に広く流通した。正定県は歴史的に「常山」と呼ばれていたため「常山戦鼓」と呼ばれる。現在はパフォーマンスで使用される。伝承では趙雲が出陣する際、常山の戦太鼓を戦場で叩くことで士気を高め、兵たちを鼓舞し、常に敵を打ち破り勝利を収めたので「常山戦鼓」と呼ばれたという。2008年、国の無形文化遺産に登録。(詳細は常山戦鼓中国語版を参照)
  • 戒指:趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷・河北省正定出身の語り部周四成の『趙子龍与戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。
    • 益州版:趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃と曹洪から薬指に深い傷を負った。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた。
    • 荊州版:荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[121]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[122]に基づいている。
    • 正定版[123]
(趙雲が長坂坡で徐庶に助けられ窮地を脱したが、その時、張郃・曹洪から指に傷を負ったので指輪で傷を隠した。)その後、劉備の軍隊が四川に入城すると、益州の人々は趙雲が手に輝く指輪をしているのを見て、彼らも指輪をつけるようになった。今日、指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で今も伝承されている。

その他

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『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは、年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾(周瑜)は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。

趙雲の72歳の誕生日を祝いに来た親戚や友人らは、老将軍に乾杯してその生涯の功績を称える歌を詠んだ。「20歳、先帝(劉備)に従い、命懸けで戦い続けた。30歳、当陽の地にて単騎で後主(劉禅)を救って名を揚げた。40歳、長江を渡りて後主を連れ戻した。50歳、南蛮征伐に向かい、軍の柱となった。60歳、祁山に出でて曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」これを聞いた趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは、我が君と、皆様の支えがあったからこそです!」

宴会が終わり、招待客がみな帰ったあと、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?」そこで風呂に入ろうと思い、一人部屋に閉じこもって服を脱ぎ、裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても、一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。 「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」

「はははははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。

故事・関連人物

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  • 一身是胆(いっしんしたん):強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。体全体に胆力が満ち溢れているという意味から。劉備が趙雲の勇ましさを称えたという故事から[125]
  • 満身是胆(まんしんしたん):一身是胆の類義語[126]

古跡・施設

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主な趙雲にまつわる古跡、遺跡、公園、テーマパークなどの施設や、趙雲にまつわる地名など。

 
「趙雲廟」
 
「子龍広場」
 
「白帝城」
 
「武侯祠」
 
「五虎上将」
 
「永昌宮」
 
「KOBE鉄人三国志ギャラリー」

中国

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  • 趙雲廟:故郷・河北省正定県にある趙雲を祀った廟。趙雲の末裔が建てたもの[127]。1997年、県級重点文物保護単位に指定。廟門・四義殿・五虎殿・君臣殿・順平侯殿(正殿)があり、趙雲の二人の息子の趙統、趙広の他、劉備や諸葛亮などの像も祀られている。そのほか、清代の『漢順平侯趙雲故里』碑、大邑趙雲墓と長坂坡の土、壁画や「趙子龍飲馬槽」の展示など。(詳細は趙雲廟中国語版を参照)
  • 子龍広場:河北省正定県の庁舎前にある広場。巨大な趙雲像があり、台座の背面に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている。
  • 常山公園:同正定県。「常山東路」にある公園。趙雲の騎馬像が設置されている。
  • 子龍桟橋:同正定県。一角に趙雲が故郷の人々と別れを告げる場面の彫像が設置されている。その他、「正定城中国語版」、「常山陵園」など、街の至る所に趙雲像が設置されている。
  • 臨城趙雲墓邢台市にある趙雲の墓。(詳細は#墓地臨城趙雲墓を参照)
  • 中国馬鎮承徳市豊寧満族自治県にある馬文化をテーマにした観光リゾートパーク。アトラクションや乗馬を楽しめる。「戦神 趙子龍」では、長坂坡の戦いを再現した馬上パフォーマンスを観覧することができる[128]
  • 前・後趙雲堡村邯鄲市辛安鎮鎮中国語版にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている[129]
  • 長坂坡公園:当陽市。「長坂坡古戦場」に整備された趙雲を顕彰する「長坂坡公園」がある。趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や『演義』の名場面を再現した壁画や像が展示されている。「長坂路」ロータリーには阿斗を抱え、槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。近くには「子龍路」「子龍村」[130]など趙雲にちなんだ地名や村名がある。その他、「子龍畈」と呼ばれる丘の近くに、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという「太子橋」や、糜夫人が身投げした「娘娘井」(井戸)と、『演義』にまつわる遺跡が存在する。
  • 荊州古城歴史文化旅遊区:湖北省荊州市。関羽関係の展示が多いが、「荊州古城」「関帝廟」に劉備、趙雲らの像が展示されている。
  • 南陽趙雲墓湖南省南陽市にある趙雲の墓。(詳細は#墓地南陽趙雲墓を参照)
  • 大邑趙雲墓:四川省大邑県にある趙雲の墓。(詳細は#墓地大邑趙雲墓を参照)
  • 静恵山公園:同大邑県。山上に「子龍祠」があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという「望羌台」の他、石碑や像がある。そのほか「子龍街路」「白馬溝」など、趙雲にまつわる地名が複数存在する。(詳細は静恵山公園中国語版を参照)
  • 成都武侯祠:同成都市。諸葛亮、主君劉備とその臣下を祀る霊廟。
  • 和平街:同成都市。旧称「子龍塘街」。趙雲の居宅があったと伝わる。(詳細は#民間伝承の子龍池を参照)
  • 富楽山公園:同綿陽市。「富楽山公園」に五虎大将軍(五虎上将)の像が設置されている。

台湾

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  • 佳里子龍廟・永昌宮:台湾・台南市佳里区。趙雲(趙聖輔天帝君)を主神として祀った廟。台湾にはこの子龍廟の他に、趙雲を祀った廟が主に島の西側に複数存在する。(詳細は佳里子龍廟中国語版を参照)

日本

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  • KOBE鉄人三国志ギャラリー:『鉄人28号』『三国志』で知られる漫画家・横山光輝の故郷、神戸市長田区にある展示施設。横山作品の他にもさまざまな三国志(演義)関連作品の展示や中国輸入雑貨、グッズ販売、正子公也デザインの趙雲フィギュアや、巨大な趙雲の銅像が展示されている。定期的に三国志イベントも開催されている。施設内で撮影した写真はネット掲載禁止のため注意(詳細は該当記事を参照)。同商店街には三国志をテーマにしたカフェ「Cha-ngokushi(ちゃんごくし)」のほか、長田区には街の至る所に三国志の人物たちの像が設置されている。

マレーシア

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  • 北海船仔頭天福宮:1871年から存在するマレーシアの子龍廟[131]。北海最大の神廟の一つ。ほかに「順平宮」[132]など、マレーシアでも趙雲を祀った廟が存在する。

趙雲を主題とした作品

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映画
  • 三国志(原題:三国志之見龍卸甲)(2008年、中国・韓国、主演:劉徳華(アンディ・ラウ) 声:東地宏樹
  • 『三国志 趙雲 無双伝』(原題:趙雲伝之龍鳴長坂坡)(2020年、中国、主演:梅洋(メイ・ヤン))
  • 『真・三国志 蜀への道』(原題:趙子龍)(2020年、中国、主演:賀軍翔(マイク・ハー))
テレビドラマ
小説
朗読CD
  • 三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ “夷陵に燃ゆ” / 趙雲篇(2012年、主演:KENN
漫画
ゲーム

その他関連作品

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映画
テレビドラマ
アニメ
ゲーム
漫画

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本では子竜[1]とも。
  2. ^ 尺は時代によって長さが違うため、書籍によっては約190cm[4]を採用している。
  3. ^ 『趙雲別伝』には何年の出来事かの記述はないが、袁紹が韓馥を脅し冀州牧を譲らせたのが初平2年の出来事[7]のため、191年頃と推測される。
  4. ^ a b 「主騎」を「護衛隊長」と訳している書籍があるが、『新唐書』巻135哥舒翰伝に見られる「使王思禮主騎(騎兵の主),李承光主步(歩兵の主)」や、『資治通鑑』第六十巻の「為備主騎兵」などのように、「騎兵隊長」と訳すのが正しい。
  5. ^ a b 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
  6. ^ 渡邉義浩は趙雲が冀州出身で幽州の公孫瓚に仕えていたため、「冀州強弩」「幽州突騎」の戦法、双方に通じていたであろうと指摘している[21]
  7. ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べている[23]
  8. ^ a b 『華陽国志』では“封丞相亮武郷侯。(中略)中護軍趙雲〔為征南將軍,封永昌亭侯。〕(中略)中部督襄陽向寵,及魏延、吳懿皆封都亭侯。”とあり、建興元年以前に中護軍になっている。
  9. ^ 『三国志』諸葛亮伝、および『華陽国志』によると、趙雲たちの軍は疑軍(少数の兵を多数に見せかけること)であった[25][26]と記録されている。 また、『漢晋春秋』には「祁山、箕谷では蜀軍の方が曹軍より多かったが撃破できなかった」とも記述がある[27]
  10. ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[28]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[29]
  11. ^ 成都から臨城に至るまでには魏の領域が含まれるため、実際には実現不可能である。
  12. ^ 他の就任者の劉巴は、劉巴とは同姓同名の別人。
  13. ^ これは趙雲に限らず、蜀の人物が書かれた『蜀書』は『魏書』が全30巻なのに対して全15巻しかなく、武官は記述量が全体的に少なめである。
  14. ^ ただし趙雲以外にも多くの臣下が諫めた[75]とあり、そのうちの一人である秦宓は諫言により一時投獄された[76]
  15. ^ その他に劉邦の側室になり、劉長を生んだ趙姫も同真定県の出身者で同姓であり、死後真定に葬られている[82]
  16. ^ 夏侯惇は14歳の時[83]に、劉備は15歳で盧植の元で学んでいた記述があり[84]、後漢末時代の良家の子はおよそ15歳前後から教育を受けさせていたことが分かる。
  17. ^ 曹丕は6歳の時に射撃の訓練を受け、8歳の時には騎乗での射撃が出来た[85]とあり、孫権は淩統の死後、淩統の2人の息子を8、9歳のときに養子に迎え、10日ごとに乗馬の訓練を受けさせた[86]とある。
  18. ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡仲虺中国語版畢公高周呂侯仲山甫中国語版尹吉甫劉章魏相丙吉耿弇馬援狄仁傑宋璟姚崇李泌中国語版陸贄中国語版裴度呂蒙正李沆中国語版寇準王曾范仲淹富弼韓琦文彦博、司馬光、李綱趙鼎文天祥、呼嚕、博果密、托克托常遇春李文忠楊士奇楊榮于謙李賢劉大夏[88]
  19. ^ a b 嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[103]。これに対し、王長友は『嘉靖本』の割注が『毛宗崗本』では省かれていることに触れ、またその割注について、思想が陳腐で融通のきかない文人によるものだと推測している[104]
  20. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[90]
  21. ^ 諸刃の「剣」は春秋戦国時代に多用された武器で、漢の時代になると片刃の「刀」の普及により剣の使用は少なくなった。それにより剣の神秘性が増し、尊重されるようになった[101]ので、この青釭剣は趙雲の英雄性を高めるための武器として登場させたと考えられ、また青釭剣は劉禅を救う場面でのみ趙雲が用いており、劉禅と趙雲の絆を表している[102]
  22. ^ この時の趙雲の諫めの台詞は、正史『趙雲別伝』とほぼ同じ台詞が書かれるが、さらに「漢賊の仇は公的、兄弟の仇は私的の事。天下の為、どちらが重いかご明察ください。」と、趙雲の意図を補強するような台詞が追加されている[105]
  23. ^ 登場時は少年だったので、北伐のこの時点で七十歳だと計算が合わない。少年=十九歳だとしても六十歳前になる。羅貫中の計算ミスか、あるいはこのような『演義』内でのやや唐突な時間経過の描写は、山本健吉が「物語作者が読者をあざむいていたことをこういうときほど痛感することはない。(中略)物語の時間は、極度に圧縮された時間である」と述べているように[106]、時代の移行を示す物語的表現手法とみられる。
  24. ^ 同インタビューによると、監督は呂布役には185cm以上の俳優を求めていたという。(聶遠は179cm)
  25. ^ 趙雲の最初の主君である公孫瓚は、白馬で揃えた騎兵『白馬義従』を率いていたことで有名で、趙雲が劉備の主騎になったことから馬術に優れていたことが推測され、そのため『白馬義従』に選ばれていた可能性があり、そこから白馬に乗るイメージに繋がったとも考えられる[118]

出典

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  1. ^ TVドラマ『三国志 Three Kingdoms』字幕表示など。
  2. ^ 井波律子 訳『正史三国志5 蜀書』ちくま学芸文庫、1993年、185頁。 
  3. ^ 渡邉義浩. "趙雲". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2024年1月4日閲覧
  4. ^ 石川 2020, p. 10.
  5. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:雲身長八尺,姿顏雄偉,為本郡所舉,將義從吏兵詣公孫瓚。"
  6. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "時袁紹稱冀州牧,瓚深憂州人之從紹也,善雲來附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何獨回心,迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。"
  7. ^ 『三國志』巻1 魏書•武帝紀. "二年春,紹、馥遂立虞爲帝,虞終不敢當。(中略)秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。"
  8. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "時先主亦依託瓚,每接納雲,雲得深自結託。”
  9. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」”
  10. ^ 『三国志』巻36趙雲伝(裴松之注・雲別伝)
  11. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主就袁紹,雲見於鄴。先主與雲同床眠臥,密遣雲合募得數百人,皆稱劉左將軍部曲,紹不能知。遂隨先主至荊州。”
  12. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先是,與夏侯惇戰於博望,生獲夏侯蘭。蘭是雲鄉里人,少小相知,雲白先主活之,薦蘭明於法律,以為軍正。雲不用自近,其慎慮類如此。”
  13. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:初,先主之敗,有人言雲已北去者,先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲至。”
  14. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "從平江南,以為偏將軍,領桂陽太守,代趙範。範寡嫂曰樊氏,有國色,範欲以配雲。雲辭曰:「相與同姓,卿兄猶我兄。」固辭不許。時有人勸雲納之,雲曰:「範迫降耳,心未可測;天下女不少。」遂不取。範果逃走,雲無纖介。”
  15. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主入益州,雲領留營司馬。此時先主孫夫人以權妹驕豪,多將吳吏兵,縱橫不法。先主以雲嚴重,必能整齊,特任掌內事。"
  16. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "權聞備西徵,大遣舟船迎妹,而夫人内欲将後主還呉,雲與張飛勒兵截江,乃得後主還。”
  17. ^ 『三國志』卷34「先主穆皇后」『漢晉春秋』 "云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。”
  18. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:益州既定,時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,今安居複業,然後可役調,得其歡心。」先主即從之。”
  19. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "夏侯淵敗,曹公爭漢中地,運米北山下,數千萬囊。黃忠以為可取,雲兵隨忠取米。忠過期不還,雲將數十騎輕行出圍,迎視忠等。值曹公揚兵大出,雲為公前鋒所擊,方戰,其大眾至,勢偪,遂前突其陳,且鬥且卻。公軍散,已復合,雲陷敵,還趣圍。將張著被創,雲復馳馬還營迎著。”
  20. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍內,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵,引去。雲雷鼓震天,惟以戎弩於後射公軍,公軍驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。”
  21. ^ 渡邉 2020, pp. 243–245.
  22. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主明旦自来至雲営囲視昨戦處,曰:「子龍一身都是膽也。」作楽飲宴至暝,軍中號雲為虎威将軍。”
  23. ^ 宮川 1988, p. 125.
  24. ^ 『三國志』卷36趙雲伝(裴松之注・雲別伝), "孫權襲荊州,先主大怒,欲討權。雲諫曰:「國賊是曹操,非孫權也,且先滅魏,則吳自服。操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰;兵勢一交,不得卒解。」先主不聽,遂東征,留雲督江州。先主失利於秭歸,雲進兵至永安,吳軍已退。”
  25. ^ 『三国志』巻35諸葛亮伝, "六年春,揚聲由斜谷道取郿,使趙雲、鄧芝為疑軍,據箕谷,魏大將軍曹真挙衆拒之。"
  26. ^    (中国語) 華陽國志/卷七, ウィキソースより閲覧。  「劉後主志 二」 "六年春,丞相亮揚聲由斜谷道取郿,使鎮東将軍趙雲,中監軍鄧芝據箕谷為疑軍,魏大將軍曹真挙衆當之。"
  27. ^ 『漢晋春秋』”或勸亮更增兵者,亮曰:「大軍在祁山,箕穀,皆多於賊,而不能破賊為賊所破者,則此病不在兵少也,在一人耳。」”
  28. ^    (中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。" 
  29. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
  30. ^    (中国語) 華陽國志/卷七, ウィキソースより閲覧。  「劉後主志 二」 "而雲、芝亦不利。亮抜将西県千餘家還漢中,戮謖及沐盛以謝眾,奪襲兵,貶雲秩。"
  31. ^ 『水經注』卷二十七「沔水」. 中国哲学書電子化計画. "諸葛亮《與兄瑾書》云:前趙子龍退軍,燒壞赤崖以北閣道,緣谷百餘里,其閣梁一頭入山腹,其一頭立柱于水中。今水大而急,不得安柱,此其窮極,不可强也。又云:頃大水暴出,赤崖以南橋閣悉壞,時趙子龍與鄧伯苗,一戍赤崖屯田,一戍赤崖口,但得緣崖與伯苗相聞而已。"
  32. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "亮曰:「街亭軍退,兵將不復相錄,箕穀軍退,兵將初不相失,何故?」芝答曰:「雲身自斷後,軍資什物,略無所棄,兵將無緣相失。」”
  33. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲有軍資余絹,亮使分賜将士,雲曰:「軍事無利,何為有賜?其物請悉入赤岸府庫,須十月為冬賜。」亮大善之。”
  34. ^ 『三國志』卷36趙雲伝(裴松之注・雲別伝), "雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡。」”
  35. ^ 『三國志』卷36趙雲伝(裴松之注・雲別伝), "大將軍姜維等議,以為雲昔従先帝,労績既著,経営天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。”
  36. ^    (中国語) 後出師表, ウィキソースより閲覧。  "自臣到漢中,中間朞年耳,然喪趙雲、陽羣、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯將七十餘人,…"
  37. ^ 『邛州直隷州志』三「徳耀奉文検葬置有碑記」. 中国哲学書電子化計画. "不蜀漢順平侯鎮東将軍趙子竜墓在県東一里関(尺川一仕醜前●不路)聰道塁誤雲祠豊碑" ●=口口+田+一+口+日に釣り針
  38. ^ 『大邑縣志』二「仙人洞県北聖許」. 中国哲学書電子化計画. "漠順平侯趙雲墓在県東美里許銀屏出下有古碑豎大道前刻漢将簟趙子竜墓墓前赫祠騎醴"
  39. ^ 『四川通志』巻25. 中国哲学書電子化計画. "靜惠山 在[大邑]縣北一里,一名東山,上有平雲亭,相傳蜀、漢趙雲所築。"
  40. ^ 曹学佺『蜀中名勝記/巻十三』(PDF)茹古書局、1910年https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko17/bunko17_w0216/bunko17_w0216_0005/bunko17_w0216_0005.pdf 古典籍総合データベース. 2024年7月8日閲覧、「靜惠山,一名東山。山下土城,相傳是蜀漢將軍趙雲築。蓋雲嘗防羌於此,有雲墓及廟存。」
  41. ^    (中国語) 关于公布成都市文物保护单位保护范围的通知, ウィキソースより閲覧。  "40、趙子龍祠墓,位于大邑県銀屏郷錦屏村,是三国蜀将趙雲的墓和祠宇。清代康熙四年(1665年)大邑知県李德耀重建。其保護範囲是現有古建築占地面積併四周各至30米処為界。"
  42. ^ 佳里子龍廟永昌宮”. Facebook. 2024年4月1日閲覧。
  43. ^ 「南陽縣・陵墓」『大明一統志』 "趙雲墓〈在南陽縣南三十里●蜀漢偏將軍趙雲〉"●=草冠に死+大(葬の異体字)
  44. ^ 「伝説故事・南陽趙雲墓」沈伯俊、譚良嘯編『三國演義大辞典』中華書局、2007年、pp. 636-637。
  45. ^ 『省政府公布173項第三批省級非物質文化遺産名録』河北日報、2009年6月17日。 
  46. ^ 郝志強 著「臨城趙雲故里考(二)」、侯風春 編『関於趙雲故里』大衆文藝出版社、2009年、99頁。 
  47. ^ 「麒麟崗與趙雲故里碑」、王信忠「臨城澄底-趙雲故里探析」、侯風春 編『関於趙雲故里』大衆文藝出版社、2009年、p79,p109。
  48. ^ 「長坡趙雲之墓」、侯風春 編『関於趙雲故里』大衆文藝出版社、2009年、p. 220。
  49. ^ 『三國志』卷40魏延伝, "以部曲隨先主入蜀,數有戰功,遷牙門將軍。"
  50. ^ 『三國志』卷36関羽伝, "曹公禽羽以歸,拜為偏將軍,禮之甚厚。"
  51. ^ 『三国志』巻32先主伝, "先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。"
  52. ^ 『三國志』卷41霍峻伝(付・霍弋伝), "遷監軍、翊軍將軍,領建寧太守,還統南郡事。"
  53. ^ 『季漢輔臣贊』李孫德(李福), ”建興元年,徙巴西太守,為江州督、楊威將軍,入為尚書僕射,封平陽亭侯。”
  54. ^ 『三國志』卷44費禕伝, "建興八年,轉為中護軍,後又為司馬。"
  55. ^ 『三國志』卷40李厳伝 "行前監軍征南將軍臣劉巴、(中略)行護軍征南將軍當陽亭侯臣姜維"
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  57. ^ 『三國志』卷32先主伝, "長史鎮軍將軍臣許靖" 『三國志』卷39董允伝(付・陳祗伝), "呂乂卒,祗又以侍中守尚書令,加鎮軍將軍,大將軍姜維雖班在祗上,常率眾在外,希親朝政。"
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  77. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之駁分賜,議甚忠正,然經國之務,有諸葛公在,必得其當,未應反待武臣駮議,殆家傳掠美耳。其諫伐吳,則又諸葛公所不能得之,其主追思孝直,恐散號列將非所及也。《別傳》大抵依仿諸葛子瑜書及孫權稱尊號諸葛公不明絕其僭之義為之。"
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参考文献・関連書籍

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正史

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演義

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  • 『三国志演義(毛宗崗版)』
  • 董毎戡『三国演義試論』上海古典文学出版社、1956年。ISBN 9787200148374 
  • 廬盛江『原来三国是這様』知本家文化事業有限公司、2007年。ISBN 9789867315564 
  • 小林瑞恵(後藤裕也、高橋康浩、中川諭)「関羽・趙雲 崇拝・愛される武将」『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014b、147-261頁。ISBN 9784585290780 
  • さくら剛『三国志男』幻冬舎文庫、2014年。ISBN 4344422201
  • 武田靖彦 著、渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス企画協力 編『三国志ビジュアル百科』講談社、2018年。ISBN 9784065135808 

関連項目

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外部リンク

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