赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日明治5年9月6日[1]) - 1942年昭和17年)5月6日[2][3])は、明治から昭和前期の外交官衆議院議員立憲民政党立憲政友会)。

赤塚正助

経歴

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鹿児島県姶良郡蒲生村[4](現在の姶良市)に旧薩摩藩[2]・赤塚源太郎の三男として生まれた[4]1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業[5]1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し[2]廈門領事、釜山領事、マニラ領事[6]外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した[7]。やがて奉天総領事に転じ、関東都督府参事官と朝鮮総督府事務官を兼任した[4]。奉天総領事として張作霖との交渉を担当した[4]1923年(大正13年)、駐オーストリア公使に任命され、駐ハンガリー公使も兼ね[8]1926年(大正15年)まで務めた[9]

退官後の1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、立憲民政党)に出馬して当選し[10]、衆議院議員に1期在任した[3]床次竹二郎と行動を共にした[11]。1930年(昭和5年)2月、第17回総選挙(鹿児島県第2区、立憲政友会公認)では次点で落選した[12]

政界引退後は新潟の別荘で余生を送り、1942年に病没した[11]。墓所は多磨霊園

人物

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1916年に半年赤塚広州総領事の下に領事官補として勤めた石射猪太郎によると、「言動が開放的ですこし巧まない。ユーモアと情味が飾らない辺幅からほどばしる。酒を愛し、談論を好み、しかも識見には独創味があった。中国側との宴席では、拳を打ち、斗酒なお辞せずの「海量」を発揮して、渾然中国人と融け合った。」[13]

栄典

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脚注

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  1. ^ 衆議院『第五十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1928年、34頁。
  2. ^ a b c 『新版 日本外交史辞典』4頁。
  3. ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』14頁。
  4. ^ a b c d 『三州名士録大鑑 上巻』165-169頁。
  5. ^ 『第七高等学校造士館一覧 自昭和14年4月至昭和15年3月』119-125頁
  6. ^ 『官報』第6991号、明治39年10月16日。
  7. ^ 『官報』第8615号、明治45年3月11日。
  8. ^ 外務省報第四十五号(大正十二年十月十五日)/職務進退
  9. ^ 外務省報第百十二号(大正十五年八月一日)/叙任及辞令
  10. ^ 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年、538頁。
  11. ^ a b 『郷土人系 上』146-147頁。
  12. ^ 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年、591頁。
  13. ^ 石射猪太郎『外交官の一生』中公文庫、2015年、32頁。
  14. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1926年12月9日。

参考文献

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  • 市来政尚『三州名士録大鑑 上巻』三州名士録刊行会、1930年。 
  • 南日本新聞社編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年。
  • 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。