豊竹咲太夫

日本の文楽太夫
豊竹咲大夫から転送)

豊竹 咲太夫(とよたけ さきたゆう、1944年昭和19年〉5月10日[2] - 2024年(令和6年)1月31日)は、日本文楽太夫。公益財団法人文楽協会技芸員、文化功労者。旧芸名竹本 綱子太夫(たけもと つなこだゆう)。本名生田 陽三(いくた ようぞう)。

豊竹 咲太夫
文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真
基本情報
出生名 生田 陽三
(いくた ようぞう)
別名 竹本 綱子太夫
(たけもと つなこだゆう)
生誕 (1944-05-10) 1944年5月10日
出身地 日本の旗 日本 大阪府大阪市[2]
死没 (2024-01-31) 2024年1月31日(79歳没)
日本の旗 日本 東京都
ジャンル 文楽
職業 太夫
活動期間 1953年 - 2024年

2024年の生存までの時点で唯一の「切場語り(きりばがたり)」(クライマックス場面の「切場」を語る太夫に与えられる最高位の称号)[2]。父は、戦後の文楽に大きな足跡を残した八代目竹本綱太夫。2019年に重要無形文化財「人形浄瑠璃文楽太夫」の保持者として各個認定された(いわゆる人間国宝[3][4]日本芸術院会員。位階は従四位、勲章は旭日中綬章

来歴

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八代目竹本綱太夫の長男として生まれる。1953年昭和28年)8月、綱太夫の師匠でもある豊竹山城少掾に9歳で入門し、「竹本綱子太夫(つなこだゆう)」の太夫名(芸名)を名乗る[2]。同年10月文楽座で初舞台。1966年(昭和41年)9月朝日座で「豊竹咲太夫」(初代)と改名。1969年第1回「豊竹咲太夫の会」を国立劇場東京都千代田区)で開催。以後、大阪や京都を含め「豊竹咲太夫の会」を主催。

1983年第1回咲くやこの花賞1999年平成11年)芸術選奨仮名手本忠臣蔵の「山科閑居」)と大阪芸術祭賞2004年紫綬褒章2007年大阪文化祭賞グランプリ(豊竹咲太夫の会)[5]2007年松尾芸能賞2009年日本芸術院賞。同年、文楽太夫の最高位「切場語り」に。2011年東燃ゼネラル音楽賞2014年大阪市市民表彰。2021年文化功労者[6]。2023年3月1日より日本芸術院会員[7]

2024年1月31日、肺炎のため、東京都内の病院で死去した[8][9]。79歳没。死没日付をもって従四位に叙され、旭日中綬章を追贈された[10]。墓所は安楽寺。戒名は慈光院寶譽義藝浄咲大居士。

人物

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国立文楽劇場大阪市)の「すぐ裏手」で生まれ、“門前の小僧”を地でいく育ち方[11]。幼少期からよく歌舞伎も観ており、父・綱太夫から「『長谷川一夫の芝居、よう見とき』と言われた」。上方歌舞伎の大スター、初代中村鴈治郎門下である「長谷川さんの芸から初代の匂いや、やり方がしのばれたでしょう」。その経験が、後に太夫として「自分の血となり肉となった」[12]

入門のきっかけは、父・綱太夫のラジオ出演。同行した際、豊竹山城少掾から直接、勧誘された[13]。戦後を代表する太夫の父と、偉大な師匠の薫陶を受ける環境で修行し、入門時から関心を集めた初舞台では伽羅先代萩の鶴喜代君を語り、その際、山城少掾が「『わしが連れて出たる』と掛け合いで政岡を語ってくださいました。恵まれたデビューでした」[11]

デビューの際、父・綱太夫とのやりとり「お父ちゃん、舞台って怖い?」「素直にやりなさい」の言葉が「いつも僕の心の中に残っています」[11]

その父の「近松(門左衛門)好きは親のDNA」[14]である近松物などを得意とする一方、「チャリ場」(滑稽な場面)も愉快に語る腕を持つ。

2009年(平成11年)、最高位の切場語りに昇格し、平成の文楽を支える存在となった際、父・綱太夫について触れ「図らずも、父親が没しました年齢(享年65)で(昇格で)すから、冥土へ行ったときの土産になる」。一方、師匠の山城少掾について「(綱太夫の死の)その2年前に師匠も亡くなり、うぬぼれに聞こえるかもしれませんが、“二君に仕えず”の気持ちで、ほかの師匠につかず、やり通してきました」[15]と述べ、二世ながら父の名跡竹本綱太夫を継がず、「私は一生、咲太夫でいきます」と宣言した。なお、取材した記者は、咲大夫の宣言を「自ら名前を大きくしてきた自信と覚悟」と説明している[2]

その「咲太夫」の名を一部継ぐ愛弟子豊竹咲寿太夫平成生まれ太夫らしくブログツイッターインスタグラムフェイスブックも活用して文楽の情報を発信しているのは、咲太夫の影響が大きい。咲太夫自身、若いころから「愛嬌のある丸い目と大きな体、親しみやすい口調」[11]を活かし、NHK番組「ばらえてい テレビファソラシド」の解答者として出演するなど、ラジオやテレビ出演も多く、若い頃から文楽の広報の役目を自ら買って出ていた。

咲太夫の活躍は多分野で硬軟自在に幅広く、歌舞伎では女形坂東玉三郎と共演したり、2005年にはと共演する初の試み「謡かたり隅田川」を、観世流シテ方能楽師野村四郎と開いたりしている[16]

得意の近松物について2011年「近松門左衛門名作文楽考」(講談社)も出版。「豊島屋油店の段」の素浄瑠璃DVDも収録した、女殺油地獄考に関する芸談本。初演から230年も途絶えてきた「豊島屋油店の段」を、父・綱大夫と十代目竹澤弥七1952年(昭和27年)ラジオ用に復曲した経緯もあり、この段だけ原文通りに上演される理由や誕生秘話、テンポの変化など曲の特徴にも言及。著書の意図について「父らがこしらえた曲は、専門ルールに則りよくできています。江戸時代にできた曲といっても通るので、歴史的証言を残したかった」[14]と語っている。

2004年ごろから天王寺区にある「懐石和光菴」を贔屓としており、大阪松竹座に出演する仲のいい歌舞伎俳優に弁当を差し入れたりしていた[17]

著書

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  • 『咲大夫まかり通る』(1987年長征社
  • 『近松門左衛門名作文楽考1 女殺油地獄(2011年)、『近松門左衛門名作文楽考2 心中天網島(2013年、いずれも講談社) - 老舗昆布店「神宗」八代目の尾嵜彰廣による旅行ガイド本風の「女殺油地獄ガイド」付き

脚注

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注釈

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  1. ^ 1953年頃から2016年3月まで、「たゆう」の表記は、芸名としては「大夫」とし、職分としての「太夫」と使い分けていた[1]

出典

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  1. ^ “文楽の芸名「太夫」に戻します 「大夫」から60年ぶり”. 日本経済新聞. (2016年3月14日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H5N_U6A310C1CR8000/ 2023年3月6日閲覧。 
  2. ^ a b c d e 産経新聞2017年3月26日大阪朝刊「【芸魂】文楽太夫・豊竹咲太夫 この名と生きる覚悟」
  3. ^ 令和元年10月25日文部科学省告示第93号
  4. ^ 人間国宝に竹本葵太夫さんら7氏 文化審議会が答申”. 朝日新聞DIGITAL. 2019年8月6日閲覧。
  5. ^ 平成19年度 大阪文化祭賞受賞者の決定について - 関西・大阪21世紀協会
  6. ^ 長嶋茂雄さんら9人文化勲章 功労者に加山雄三さんら”. 時事ドットコム (2021年10月26日). 2021年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月5日閲覧。
  7. ^ 令和4年度 日本芸術院会員候補者の決定について”. 日本芸術院 (2023年2月22日). 2023年4月28日閲覧。
  8. ^ 文楽太夫の豊竹咲太夫さん死去 79歳 人間国宝、文化功労者”. 産経新聞 (2024年1月31日). 2024年1月31日閲覧。
  9. ^ 豊竹咲太夫さん死去、79歳=文楽太夫の人間国宝 - 時事通信ニュース 2024年1月31日
  10. ^ 『官報』第1176号10頁 令和6年3月7日
  11. ^ a b c d 産経新聞夕刊2003年6月13日 文楽 豊竹咲大夫 修業半世紀これからが本当の勝負
  12. ^ 産経新聞朝刊2014年7月17日【平成の名人】文楽太夫・豊竹咲大夫さん 一期一会の曲 素直に語れ
  13. ^ 歌舞伎・文楽インタビュー 豊竹 咲大夫
  14. ^ a b 産経新聞朝刊2011年6月4日 近松門左衛門名作文楽考(1)女殺油地獄
  15. ^ 産経新聞朝刊2009年4月4日 切場語り昇格「冥土の土産に」 豊竹咲大夫
  16. ^ 謡かたり隅田川 - Google Sites
  17. ^ 産経新聞夕刊2014年4月16日「僕の三つ星 私の三つ星」文楽太夫・豊竹咲大夫さん 「八寸」和光菴

関連人物

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外部リンク

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