西条村 (千葉県)

日本の千葉県安房郡にあった村

西条村(さいじょうむら)は、千葉県安房郡長狭郡)にかつて存在した村である。現在の鴨川市の中部に位置している。

さいじょうむら
西条村
廃止日 1954年7月1日
廃止理由 新設合併
鴨川町田原村西条村東条村鴨川町
現在の自治体 鴨川市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
安房郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
隣接自治体 安房郡鴨川町、東条村、田原村、君津郡亀山村
西条村役場
所在地 千葉県安房郡西条村
座標 北緯35度07分23秒 東経140度05分10秒 / 北緯35.12294度 東経140.08622度 / 35.12294; 140.08622 (西条村)座標: 北緯35度07分23秒 東経140度05分10秒 / 北緯35.12294度 東経140.08622度 / 35.12294; 140.08622 (西条村)
西条村 (千葉県)の位置(千葉県内)
西条村 (千葉県)
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1889年(明治22年)、町村制施行にともない編成され、昭和の大合併により廃止された。

地理

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鴨川町(現在の鴨川市中心地区)の北西に隣接する。東隣の東条村との境界はおおむね待崎川であり、西隣の田原村との境界はおおむね金山川である。

現在の鴨川市域を、鴨川市成立時およびその後の合併時の町村によって4地区に区分する場合、「鴨川地区」の一部に位置付けられている。鴨川市域を町村制施行当時の町村(旧町村)によって12地区に区分する場合は「西条地区」とされ[1]、現在の大字では打墨(うつつみ)・滑谷(ぬかりや)・八色(やいろ)・花房(はなぶさ)・粟斗(あわと)が含まれる[1][注釈 1]

1926年(大正15年)時点の西条村は、東に東条村、西に田原村、南は鴨川町、北は房総山脈を隔てて君津郡亀山村と接していた[3]:1096。当時は全村を旧村に従い5区に分けていた[3]:1096

歴史

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前近代

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打墨の地名は古く、中世に打墨郷の名が見られるが、その範囲ははっきりしていない[3]:1096。安国寺(旧吉尾村北風原)の鐘銘には「打墨郷安国寺」の文字があり[3]:1096、また慶長15年の里見家による高割帳に打墨郷879石余と記されることから[3]:1096、相当の広さを持っていたと見られる[3]:1096。打墨の北部には金山城が築かれ、戦国時代には安房正木氏が居城とした[注釈 2]。打墨村は江戸時代初期の元和4年(1618年)に上打墨・中打墨・下打墨の3村に分けられた[4]

花房は『日蓮聖人註画賛』に「西条花房郷」と記される[3]:1096

近代

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安房郡域の町村制施行時の町村
(※1897年に平郡・朝夷郡・長狭郡を安房郡に編入)
1.北条町 2.館山町 3.豊津村 4.西岬村 5.富崎村 6.長尾村 7.豊房村 8.神戸村 9.館野村 10.九重村 11.稲都村
平郡】21.凪原村〔のち那古町〕 22.船形村 23.八束村 24.富浦村 25.岩井村 26.勝山村 27.保田村 28.佐久間村 29.平群村 30.滝田村 31.国府村
朝夷郡】41.白浜村 42.七浦村 43.曦村〔のち千倉町〕 44.健田村 45.千歳村 46.豊田村 47.丸村 48.北三原村 49.南三原村 50.和田村 51.江見村
長狭郡】61.太海村 62.大山村 63.吉尾村 64.由基村〔のち主基村〕 65.田原村 66.鴨川町 67.曽呂村 68.西条村 69.東条村 70.天津村 71.湊村〔のち小湊町〕
現在の行政区画
赤:館山市 桃:鴨川市 紫:南房総市 橙:鋸南町

慶応4年(1868年)、遠江国横須賀藩3万5000石の藩主西尾忠篤は、安房国・上総国に所替が命じられた。西尾家は花房村に新城地と定めた(花房藩[5]。広場・西・東・和泉・貝渚・八色・滑谷・花房の各村に属する土地が藩士の屋敷地として取り立てられ、花房村萩原台に築城が開始されたが、完成に至ることなく明治4年(1871年)に廃藩置県を迎えた[5]

1873年(明治6年)、上打墨・中打墨・下打墨村が合併し、再び1村(打墨村)になった[4][3]:1096

1878年(明治11年)、千葉県に郡区町村編制法が施行されると、粟斗村・花房村・八色村は1つの連合(連合戸長役場)となり、滑谷村は横渚村と連合、打墨村は単独で戸長役場を置いた[4]。1884年(明治17年)に戸長役場の管轄変更が行われた際に、打墨村・粟斗村・八色村・花房村・和泉村の連合がまとまった[4]

1889年(明治22年)、町村制が施行された際、和泉村が離脱し、滑谷村が加わった5か村(打墨村・粟斗村・花房村・八色村・滑谷村)で西条村が発足[4]。新村名は、花房村が「西条」と称していたことがあり、また隣村が「東条村」と称するのに呼応するところから命名された[4]

行政区画・自治体沿革

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経済

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1888年(明治21年)に記された分合取調文書によれば、住民はおおむね農業で生計を立てていたとある[4]

1926年(大正15年)の『安房郡誌』によれば、土地豊饒な純農村であり[3]:1097、副業として蔬菜・果樹栽培が盛んであった[3]:1089。同書によれば、近年急速に養蚕業が発達を見せ、郡内随一の地位を占めているという[3]:1097。その他、屋根瓦製造や籐竹細工が行われている[3]:1097

交通

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道路

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名所・旧跡・祭事

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  • 金山城[3]:1089(打墨から太田学一帯)
  • 日蓮疵洗井[3]:1089

脚注

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注釈

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  1. ^ 大字の読みは日本郵便の郵便番号検索[2]による。
  2. ^ 平安時代末期に長狭常伴の居城であったとも、戦国初期に里見義実が滅ぼした東条氏の居城であったとも伝えられるが、定かではない。天正8年(1580年)の正木憲時の乱に際し、里見義頼の軍勢に攻め落とされたのが、確実な記録である。

出典

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  1. ^ a b 大字別世帯数および人口” (pdf). 鴨川市統計書 平成28年版. 鴨川市役所. pp. 18-19. 2018年4月4日閲覧。
  2. ^ 郵便番号検索
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 千葉県安房郡教育会 編『千葉県安房郡誌』千葉県安房郡教育会、1926年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980721 
  4. ^ a b c d e f g 西条村」『明治22年千葉県町村分合資料 十八 長狭町村分合取調』、40-43頁http://e-library.gprime.jp/lib_pref_chiba/da/detail?tilcod=0000000014-CHB6002102018年4月4日閲覧 
  5. ^ a b 花房陣屋” (pdf). 千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋. 千葉県教育振興財団 (2013年3月). 2018年4月1日閲覧。

関連項目

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  • 千葉県の廃止市町村一覧
  • 波の伊八(武志伊八郎信由) - 宝暦元年(1751年)、下打墨村出身の宮彫師。伊八郎の名跡は昭和中期まで5代にわたって続いた。初代伊八生誕の地(伊八屋敷跡)に歴代の墓がある。

外部リンク

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