西川恒山
西川 恒山(にしかわ こうざん)は江戸時代中期の佐渡奉行所地役人。両津夷にある村雨の松の植樹者。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保20年(1735年) |
死没 | 文化2年9月16日(1805年11月6日) |
別名 | 藤兵衛(通称)、邦実(名)、士亮(字)、蘭門(号)[1] |
墓所 | 大安寺 |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行所 |
氏族 | 西川氏 |
父母 | 西川敦救、西川長右衛門娘 |
妻 | 仁木門右衛門娘 |
子 | 西川明雅 |
経歴
編集延享2年(1745年)佐渡奉行所定床屋番役となり、切米20俵・3人扶持を受けた[2]。宝暦2年(1752年)夷湊番所役、宝暦3年(1753年)代官支配、宝暦12年(1762年)夷湊番所定番役、明和5年(1768年)佐渡奉行支配[2]。
長年夷で閑職に甘じていた間、鈴木北湖の詩社で鈴木逸甫・鈴木金峰・中山漸廬・藤沢子山等と詩文を研鑽した[1]。また、番所裏手に漁師等の目印となるよう[2]クロマツを植えたところ、後世大きく成長し、明治34年(1901年)尾崎紅葉により「村雨の松」と命名され、昭和31年(1956年)3月23日新潟県天然記念物に指定された[3]。
明和7年(1770年)山方役に転じた[2]。安永4年(1775年)1月前年分地方・銀山方勘定仕上げのため江戸勤務を命じられ、7月赴任し、安永5年(1776年)8月帰郷した[2]。天明元年(1781年)にも同じく江戸に勤務し、天明2年(1782年)8月帰郷した[2]。龍草廬・片山兼山に漢詩の添削を受けた[1]。
天明3年(1783年)公事方役、寛政3年(1791年)与力格広間役、文化元年(1804年)金蔵定番役、20人扶持[2]。文化2年(1805年)老衰のため退職し、9月16日(11日とも)71歳で病死し[2]、大安寺に葬られた[1]。
先祖
編集- 西川長右衛門
- 西川藤兵衛
- 西川長右衛門
- 西川長右衛門広明
- 西川儀太夫敦救
家族
編集脚注
編集参考文献
編集- 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/48