西山冨佐太
西山 冨佐太(にしやま ふさた、1889年(明治22年)7月18日[1][2][3] - 1972年(昭和47年)8月7日[1][2][3][4])は、明治末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。
経歴
編集岡山県[4]御野郡福浜村青江[1][2][3](現岡山市青江[1][2][3])で、農業・西山猪三郎の長男として生まれた[3][注釈 1]。1910年(明治43年)岡山県師範学校を卒業した[1][2][3][4]。
福浜尋常高等小学校訓導、富山尋常高等小学校訓導、平壌小学校訓導、女子師範学校訓導などを経て、1933年(昭和8年)岡山市立内山下小学校(現岡山市立岡山中央小学校)の校長に就任[1][2][3][4]。その他、岡山県清輝青年訓練所長、同内山下青年学校長を務めた[4]。
1946年(昭和21年)1月、岡山市教員組合、岡山県連合教員組合の組合長に就任[1][2][3][4]。教員組合の支援を受けて、同年4月の第22回衆議院議員総選挙で岡山県全県区から無所属で出馬して当選[5]。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で岡山県第1区から民主党公認で出馬して再選され[6]、衆議院議員に連続2期在任した[4]。衆議院文教委員を務め、教員の待遇改善、義務教育無償化、退職教員の恩給増額、岡山大学誘致運動などに尽力した[2][3]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では民主党公認で立候補したが、支持母体の教員組合が日本社会党支持に転換したため落選した[7]。
その後、教育界に戻り、1950年(昭和25年)岡山県教育委員に立候補して当選し、1956年(昭和31年)公選制教育委員会の廃止まで在任した[3]。その他、広島少年審判所司法保護委員、岡山県体育会評議員、日本教育会岡山県支部参与、日本退職公務員連盟岡山県支部理事長[注釈 2]などを務めた[1][2][3][4]。