西園寺八郎
西園寺 八郎(さいおんじ はちろう、1881年〈明治14年〉4月22日[1] - 1946年〈昭和21年〉7月1日[1])は、日本の宮内官僚、政治家。位階・勲等・爵位は従二位勲一等公爵[2]。
西園寺 八郎 さいおんじ はちろう | |
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生年月日 | 1881年4月22日 |
出生地 | 日本 東京府東京市 |
没年月日 | 1946年7月1日(65歳没) |
出身校 | ボン大学 |
称号 |
従二位 勲一等瑞宝章 公爵 |
配偶者 | 西園寺新 |
子女 |
西園寺公一(長男) 西園寺不二男(三男) |
親族 |
西園寺公望(養父) 毛利元徳(父) |
選挙区 | (公爵議員) |
在任期間 | 1940年12月28日 - 1946年4月18日 |
来歴
編集旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生する[1]。1899年(明治32年)7月、学習院中等科を卒業。同年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。西園寺家と毛利家には、西園寺実輔の生母が長州藩主・毛利秀就の娘であったり、西園寺賞季の娘が長府藩主・毛利匡芳に嫁いだなどの関係があった。その後、ドイツのボン大学に留学した。ドイツではヨハネス・ユストゥス・ライン家に寄宿した[3]。1906年(明治39年)公望の長女・新と結婚した。公望がヴェルサイユ講和会議に首席全権として渡仏した際は、妻と共に随行している。
1909年(明治42年)、桂太郎の内閣総理大臣秘書官に就任する。1914年(大正3年)、宮内省式部官に就任する。式部職庶務課長、式部次長を経て、1926年(大正15年)に主馬頭となる[4]。また、1921年(大正10年)からは東宮職御用掛も兼任し、皇太子時代の昭和天皇を補佐した[5]。一方、1920年(大正9年)10月に妻の新が亡くなると、次第に公望と疎遠になっていく。
1921年(大正10年)2月、麻布飯倉片町の自宅に抹殺社を名乗る暴漢6名が押し入り、皇太子裕仁親王の欧州訪問阻止のため随行予定の八郎を斬るとする斬奸状を読み上げたうえ斬りつけるという暗殺未遂事件が起こった[6][7]。八郎は負傷したが、駆け付けた警察により犯人らは逮捕された[6][7]。皇太子の渡欧に随行し、訪英時には、プロゴルフの試合を初めて観戦したことで知られる。
1926年(大正15年)、内大臣牧野伸顕の宮内省組織刷新に反発し、牧野の失脚をはかるものの、失敗する。1928年(昭和3年)、勲一等瑞宝章受章。1933年(昭和8年)、主馬頭を辞して宮内省御用掛(勅任待遇)となる[8]。公望の死去により、1940年(昭和15年)12月28日、家督を相続し貴族院公爵議員に就任[9]。1941年(昭和16年)、長男の公一がゾルゲ事件に連座したため廃嫡、不二男を後継者とした[10]。
1946年(昭和21年)4月18日、貴族院議員を辞職した[11][12]。同年、7月1日に死去。満65歳没。墓所は多磨霊園(8-1-1-6)。
人物
編集剣道の達人だった(前記の暴漢乱入時には、護身用仕込杖で応戦している[6])が、気が短く口より先に手が出る性格だった。そのようなことから、宮内省内で「高等ごろつき」というニックネームがつけられた[13]。
皇太子時代から昭和天皇を熱心にサポートし、本職の式部次長・主馬頭よりも東宮職御用掛として東宮御所に伺候することに時間を費やした[14]。行啓等の下準備にも介入し、越権行為とみなした東宮侍従との軋轢は新聞ネタにもなった[15]。
栄典
編集- 1907年(明治40年)5月10日 - 正五位[16]
- 1916年(大正5年)1月19日 - 勲五等双光旭日章[17]
- 1920年(大正9年)9月7日 - 勲四等旭日小綬章[18]
- 1921年(大正10年)10月5日 - 勲三等旭日中綬章[19]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[20]
- 外国勲章佩用允許
- 1916年(大正5年)2月15日 - ロシア帝国:神聖アンナ第二等勲章[21]
- 1917年(大正6年)2月24日 - オランダ王国:オランジナッソー第三等勲章[22]
- 1918年(大正7年)3月3日 - 中華民国:三等嘉禾章[23]
- 1920年(大正9年)2月10日 - ローマ教皇庁:サンシルベストル第二等勲章[24]
- 1921年(大正10年)9月11日[25]
- 大英帝国:ヴィクトリア勲章コマンダー
- フランス共和国:レジオンドヌール勲章オフィシエ
- ベルギー王国:レオポール第二世勲章コマンドール
- オランダ王国:オランジュナッソー勲章グランオフィシエ
- イタリア王国:クーロンヌ勲章グランオフィシエ
- ローマ教皇庁:サングレゴアル勲章グランクロア
- 1924年(大正13年)5月19日 - フランス共和国:ドラゴンドランナン勲章グランオフィシエ[26]
- 1926年(大正15年)10月21日 - スウェーデン王国:エトアルポレール勲章グランクロア[27]
- 1929年(昭和4年)7月22日 - 大英帝国:ヴィクトリア勲章ナイトコマンダー[28]
系譜
編集注釈が無い限り霞会館 1996, p. 621を参照している。
脚注
編集- ^ a b c 霞会館 1996, p. 621.
- ^ 『官報』第5797号「帝国議会」1946年5月15日。
- ^ ライン博士と日本の紙に就いて『三椏及三椏紙考』王子製紙販売部総務課、1940年
- ^ 『官報』第4276号本紙「叙任及び辞令」、1926年11月24日(NDLJP:2956426/3)。
- ^ 『官報』第2774号本紙「叙任及び辞令」、1921年10月29日(NDLJP:2954889/3)。
- ^ a b c 「抹殺社六名が西園寺氏を襲う」、『読売新聞』1921年2月27日朝刊、7頁。
- ^ a b 西園寺八郞襲擊事件『明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇』有恒社 編 (有恒社, 1934)
- ^ 『官報』第1882号本紙「叙任及び辞令」、1933年4月12日(NDLJP:2958354/4)。
- ^ 貴族院事務局 1947, p. 50.
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、242頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 貴族院事務局 1947, p. 55.
- ^ 『官報』第5797号、昭和21年5月15日。
- ^ 小川金雄 2023, p. 308.
- ^ 小川金雄 2023, p. 309.
- ^ 「紫鉛筆」、『読売新聞』1923年2月27日朝刊、5頁。
- ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第2756号「叙任及辞令」1921年10月7日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第1062号「叙任及辞令」1916年2月18日。
- ^ 『官報』第1370号「叙任及辞令」1917年2月27日。
- ^ 『官報』第1675号「叙任及辞令」1918年3月6日。
- ^ 『官報』第2256号「叙任及辞令」1920年2月13日。
- ^ 『官報』第2737号「叙任及辞令」1921年9月14日。
- ^ 『官報』第3523号「叙任及辞令」1924年5月23日。
- ^ 『官報』第4253号「叙任及辞令」1926年10月27日。
- ^ 『官報』第771号「叙任及辞令」昭和4年7月25日。
参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』(昭和21年12月増訂)貴族院事務局、1947年。doi:10.11501/1653722。
- 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院編、大蔵省印刷局、1990年。
- 『平成新修旧華族家系大成:上巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 小川金男『皇室の茶坊主 下級役人がみた明治・大正の「宮廷」』河西秀哉監修、創元社、2023年(原著1951年)。ISBN 978-4-422-20169-6。
公職 | ||
---|---|---|
先代 伊藤博邦 |
主馬頭 1926年 - 1933年 |
次代 杉村愛仁 |
先代 伊藤博邦 |
式部次長 1921年 - 1926年 |
次代 渡辺直達 次長心得 |
日本の爵位 | ||
先代 西園寺公望 |
公爵 西園寺家第2代 1940年 - 1946年 |
次代 爵位返上 |