毛利 匡芳(もうり まさよし)は、江戸時代中期の大名長門国長府藩10代藩主。官位従五位下甲斐守

 
毛利 匡芳
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦11年1月9日1761年2月13日
死没 寛政4年6月18日1792年8月5日
改名 政次郎、匡豊、匡芳
戒名 功篤院殿哲嵓良壽大居士
墓所 山口県下関市長府の功山寺
東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
長門長府藩
氏族 毛利氏
父母 毛利匡敬(重就)、留楚
兄弟 好、佐代、匡満、友、勢代、治親、澄、
匡芳親著、列、多鶴、長、内藤信旭正室ら
宝珠院、鏡貞院
元義
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略歴

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長州藩毛利重就(元は長府藩8代藩主・毛利匡敬)の五男として江戸にて誕生する。宝暦11年(1761年)正月9日生まれとする説もある。幼名は政次郎。は始め匡豊、のち匡芳に改めた。

明和6年(1769年)、兄で先代藩主の毛利匡満が嗣子なくして若死にしたため、跡を継いだ。安永3年(1774年)12月に叙任する。天明3年(1783年)5月、父・重就による幕府への嘆願で城主格となった。節倹条例や奢侈禁止令を出して藩財政を再建し、さらに文武発展を目指して藩校敬業館を開いた。

寛政4年(1792年)6月18日、江戸にて死去し、跡を長男の元義が継いだ。法号は功篤院殿哲嵓良壽大居士。墓所は東京都港区高輪泉岳寺山口県下関市長府功山寺

系譜

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