襄州(じょうしゅう)は、中国にかつて設置された南北朝時代から北宋にかけて、現在の湖北省襄陽市一帯に設置された。

中国地名の変遷
建置 漢代
使用状況 襄陽市
前漢襄陽県
後漢襄陽郡
三国襄陽郡
西晋襄陽郡
東晋十六国雍州
南北朝襄州
襄州
襄陽郡
襄州
五代襄州
北宋/襄陽府
南宋/襄陽府
襄陽路
襄陽府
襄陽府
中華民国襄陽県
現代襄陽市

魏晋南北朝時代

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東晋太元年間に僑州として設置された雍州を前身とする。西魏により雍州は襄州と改称された。

隋代

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隋代が成立すると当初は6郡12県を管轄した。583年開皇3年)、襄州の属郡6郡は廃止された。607年大業3年)、郡制施行に伴い襄陽郡と改称され、下部に11県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
襄州 鄀州 襄陽郡
襄陽郡 河南郡 徳広郡 武泉郡 南襄陽郡 長湖郡 武寧郡 襄陽県 陰城県 穀城県
安養県 上洪県 率道県
漢南県 義清県 南漳県
常平県 鄀県
襄陽県
陰城県
築陽県
穀城県
安養県 上洪県 率道県
漢南県
義清県
思安県 常平県
旱停県
鄀県

唐代

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621年武徳4年)、王世充を平定すると、襄陽郡は襄州と改められた。襄州は襄陽・安養・漢南・義清・南漳・常平の6県を管轄した。襄州には山南道行台が置かれ、山南道行台は交州広州安州黄州寿州など257州を統轄した。624年(武徳7年)、山南道行台が廃止され、襄州都督府が置かれて襄州・鄧州唐州均州淅州重州を監督した。742年天宝元年)に襄州は襄陽郡と改称された。758年乾元元年)、襄陽郡は襄州の称にもどされた。襄州は山南東道に属し、襄陽・鄧城・穀城・義清・南漳・宜城楽郷の7県を管轄した。761年上元2年)、襄州節度使が置かれ、襄州・鄧州・均州・房州金州商州などを領知した。後に山南東道節度使の治所となった[2]

宋代

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1119年宣和元年)、襄州は襄陽府に昇格した[3]

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志下
  2. ^ 旧唐書』地理志二
  3. ^ 宋史』地理志一