融州
中国の広西チワン族自治区にあった州
概要
編集南朝梁の大同年間に設置された東寧州を前身とする。東寧州は斉熙郡・黄水郡を管轄した。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、東寧州の属郡は廃止された。598年(開皇18年)、東寧州は融州と改称された。融州は義熙・臨牂・黄水の3県を管轄した。606年(大業2年)、融州は廃止され、その管轄区域は桂州に移管された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、桂州は始安郡と改称された[1]。
621年(武徳4年)、唐が蕭銑を滅ぼすと、隋の始安郡義熙県に融州が再設置された。融州は義熙・臨牂・黄水・安修の4県を管轄した。623年(武徳6年)、義熙県は融水県と改称された。742年(天宝元年)、融州は融水郡と改称された。758年(乾元元年)、融水郡は融州の称にもどされた。融州は嶺南道の桂管十五州に属し、融水・武陽の2県を管轄した[2]。
北宋のとき、融州は広南西路に属し、融水県と融江寨を管轄した。南宋のとき、懐遠県が加増された。羈縻州に楽善州があった[3]。
1277年(至元14年)、元により融州に安撫司が置かれた。1279年(至元16年)、融州安撫司は融州路総管府と改められた。1285年(至元22年)、融州路は融州に降格した。融州は湖広等処行中書省に属し、融水・懐遠の2県を管轄した[4]。
1369年(洪武2年)、明により融水県が廃止された。羅城県が新設され、融州に編入された。1377年(洪武10年)、融州は廃止され、融県に降格した。融・懐遠・羅城の3県は柳州府に編入された[5]。