藤原経通

平安時代の公卿。藤原懐平の長男。正二位、権中納言。

藤原 経通(ふじわら の つねみち)は、平安時代中期の公卿権中納言藤原懐平の長男。土御門帥と号す。

 
藤原 経通
時代 平安時代中期
生誕 天元5年(982年
死没 永承6年8月16日1051年9月23日[1]
諡号 土御門帥
官位 正二位権中納言
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原懐平、母:源保光の娘
兄弟 経通資平経任資頼資高
源高雅の娘
源経仲経季経平顕家藤原範輔
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経歴

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一条朝前期の永祚2年(990年従五位下叙爵侍従を経て、長徳4年(998年右兵衛権佐長保3年(1001年)従五位上・右近衛少将に叙任されるなど、若年時は武官を歴任する。

寛弘2年(1005年正五位下右中弁に叙任されると、寛弘4年(1007年従四位下、寛弘6年(1009年)権左中弁、寛弘8年(1011年)従四位上、寛弘9年(1012年)左中弁、長和2年(1013年正四位下と一条朝後半から三条朝にかけて弁官を務めながら順調に昇進する。また、小野宮流出身でありながら、中宮権亮中宮藤原彰子)や春宮亮春宮は敦成親王)なども兼ね、執政の左大臣藤原道長の近親に仕えた。

長和5年(1016年)敦成親王の践祚後一条天皇)後まもなく、経通は蔵人頭(頭弁)に任ぜられる。頭を足かけ4年務め、寛仁3年(1019年参議に任ぜられ公卿に列すが、弁官を解かれて左京大夫のみを兼ねた。翌寛仁4年(1020年)正月に従三位、11月に正三位と続けて昇叙され、のち議政官として治部卿・兵衛督・検非違使別当を兼帯したほか、大皇太后宮権大夫として再び藤原彰子にも仕えている。

長元2年(1029年権中納言に昇進すると、のち衛門督を兼ねる。長元7年(1034年従二位長暦元年(1037年正二位といずれも天皇の上東門院への行幸に際して昇叙を受けており、女院となった藤原彰子に院司として仕えていた様子が窺われる。後冷泉朝初頭の寛徳3年(1046年大宰権帥を兼ねて九州へ下向し、永承5年(1050年)までこれを務めた。

永承6年(1051年)8月16日薨去享年70。最終官位は権中納言正二位兼治部卿。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『尊卑分脈』では1月18日とする。

参考文献

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