藤原経季

平安時代中期から後期の公卿。藤原北家小野宮流。藤原経通の次男。正二位・中納言。子に真覚

藤原 経季(ふじわら の つねすえ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿藤原北家小野宮流権中納言藤原経通の次男。官位正二位中納言

 
藤原経季
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 寛弘7年(1010年
死没 応徳3年(1086年)8月
別名 宇治中納言
官位 正二位中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原経通、母:源高雅の娘
兄弟 源経仲経季経平顕家藤原範輔
藤原能通の娘、藤原邦恒の娘(姉)
藤原邦恒の娘(妹)、藤原定頼の娘、
源行任の娘
通家季仲季実兼平雅経、増覚、真覚
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経歴

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後一条朝中期の万寿4年(1027年従五位下美作権守に叙任される。

長元2年(1029年右兵衛佐次いで左近衛少将に任ぜられると、長元3年(1030年)従五位上、長元6年(1033年正五位下、長元8年(1035年従四位下長暦2年(1038年)従四位上、長久2年(1041年正四位下、長久3年(1042年)左近衛権中将と後一条朝後半から後朱雀朝にかけて、近衛次将を務めながら順調に昇進した。

寛徳2年(1045年後冷泉天皇即位すると、経季は蔵人頭(頭中将)に補せられる。頭を2年足らず務めたのち、永承2年(1047年従三位参議に叙任されて公卿に列したが、この時に近衛中将・修理権大夫は解かれている。

議政官としてしばらくは、美作権守・備前権守備中権守と地方官のみを兼帯し、この間の康平5年(1062年正三位に昇叙されている。治暦3年(1067年)左兵衛督を兼ねると、後三条天皇が即位した治暦4年(1068年権中納言に昇進するが、衛門督の兼帯は解かれている。

のち、治暦5年(1069年従二位延久3年(1071年正二位と昇叙を重ね、白河朝承暦4年(1080年)中納言に至る。永保2年(1082年)正月に子息の兼平出雲守任官させる代わりに辞職。同年6月1日に出家した。応徳3年(1086年)8月薨去享年77。

人物

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従兄弟の藤原資房から散々に批判されるなど政治的能力に乏しく、権中納言任官も年労であった。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 公卿補任』の註によれば2月17日ともいう。『蔵人補任』は2月17日とする。

出典

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年