藤原為輔
平安時代中期の公卿。藤原北家勧修寺流甘露寺家初代。藤原朝頼の長男。正三位・権中納言
藤原 為輔(ふじわら の ためすけ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家勧修寺流、右大臣・藤原定方の孫で、左兵衛督・藤原朝頼の長男。官位は正三位・権中納言。甘露寺中納言[1]または松崎帥[1]と号す。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延喜20年(920年) |
死没 | 寛和2年8月27日(986年10月3日) |
別名 | 甘露寺中納言、松崎帥、正字:爲輔 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→一条天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原朝頼、母:藤原言行の娘 |
妻 | 藤原守義の娘 |
子 | 惟孝、説孝、宣孝、藤原佐理室 |
経歴
編集朱雀朝末の天慶8年(945年)蔵人所雑色次いで六位蔵人として天皇に仕える。天慶9年(946年)譲位後も院判官代として朱雀院に引き続き仕えながら、木工権助、式部少丞を歴任。天暦2年(948年)判官代の労により従五位下に叙爵し、豊前権守に任ぜられた。
村上朝では天暦4年(950年)因幡守、天暦9年(955年)従五位上・尾張守、天徳5年(961年)正五位下・丹波守、康保3年(966年)従四位下・山城守と、地方官を務めながらその治国の功労により順調に昇進した。
冷泉朝に入ると、康保4年(967年)左京大夫として京官を兼ねる。安和2年(969年)右中弁に遷ると、天禄元年(970年)従四位上・左中弁、天禄2年(971年)右大弁と円融朝では弁官を務めながら引き続き順調に昇進し、天延3年(975年)参議に任ぜられて公卿に列した。
貞元2年(977年)正四位下に昇叙され、翌貞元3年(978年)には左大弁に進む。その後も左大弁として弁官を務める傍らで、天元4年(981年)従三位、永観2年(984年)正三位と昇進を重ねた。
寛和2年(986年)正月に権中納言兼大宰権帥に任ぜられ、冷泉朝以来17年に亘って務めた弁官の職を離れる。同年8月27日薨去。享年67。最終官位は正三位中納言大宰権帥。
官歴
編集『公卿補任』による。
- 天慶8年(945年) 4月18日:蔵人所雑色。5月23日:六位蔵人
- 天慶9年(946年) 2月7日:木工権助(蔵人労)。4月20日:院判官代(依譲位也)。12月1日:式部少丞、朱雀院判官代
- 天暦2年(948年) 正月7日:従五位下(判官代労)。正月30日:豊前権守(代如元)
- 天暦4年(950年) 7月5日:因幡守
- 天暦9年(955年) 2月7日:尾張守。3月28日:従五位上(治国任功)
- 天徳4年(960年) 9月16日:昇殿
- 天徳5年(961年) 正月1日:次侍従 正月25日:丹波守。2月18日:昇殿。12月2日:正五位下(造殿賞)
- 康保3年(966年) 正月9日:従四位下(治国)。正月27日:山城守
- 康保4年(967年) 10月7日:左京大夫
- 安和2年(969年) 正月7日:昇殿。4月28日:右中弁
- 天禄元年(970年) 11月20日:従四位上(治国)。12月16日:左中弁
- 天禄2年(971年) 12月15日:右大弁
- 天延2年(974年) 10月28日:大和権守
- 天延3年(975年) 11月27日:参議(右大弁大和権守等如元)
- 貞元2年(977年) 正月7日:正四位下
- 貞元3年(978年) 10月17日:左大弁
- 天元2年(979年) 正月20日:紀伊権守。12月2日:勘解由長官
- 天元3年(980年) 7月1日:美濃権守。9月23日:止権守
- 天元4年(981年) 正月7日:従三位
- 天元6年(983年) 正月27日:辞長官。8月23日:治部卿
- 永観2年(984年) 8月9日:正三位(造宮行事賞。超二人)。8月28日:昇殿
- 永観3年(985年) 正月28日:播磨権守
- 寛和2年(986年) 正月28日:権中納言(加階)、大宰権帥。8月27日:薨去(正三位中納言大宰権帥)[2]
系譜
編集『尊卑分脈』による。
脚注
編集参考文献
編集- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年