藤原成隆
平安時代末期の貴族
藤原 成隆(ふじわら の なりたか)は、平安時代末期の貴族。藤原北家、左京大夫・藤原家隆の長男。官位は従四位上・少納言、皇后宮権亮。
時代 | 平安時代末期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 従四位上、少納言、皇后宮権亮 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原家隆、母:藤原盛実の娘 |
兄弟 | 成隆、定国、昌隆、隆海、澄智、平忠盛妾、藤原忠章室 |
子 | 隆親、孝定 |
経歴
編集仁平3年(1153年)に従四位上に叙せられる。左大臣・藤原頼長とは父方・母方の双方で従兄弟同士の間柄であり、その関係から頼長の家司、近習として活動。保元元年(1156年)の保元の乱に当たっては、頼長と共に崇徳上皇方に参加する。
敗戦後、上皇の命を受け、頼長を護衛し騎馬に同乗して敗走するが、頼長は源重貞の放った矢に当たり重傷を負う。介護の甲斐なく頼長が死亡すると、成隆は数日間仁和寺に潜伏した末、出家した上で官軍に投降。審議の末に阿波国への流罪に処せられた。『尊卑分脈』の記述によれば、その後帰京し没したという。