藤原家隆 (左京大夫)
日本の平安時代の貴族、廷臣
藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、平安時代後期の貴族。藤原北家、関白内大臣・藤原師通の三男。官位は従四位上(または正四位下)・左京大夫。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天治2年11月11日(1125年12月7日) |
官位 | 従四位上(または正四位下)、左京大夫 |
主君 | 堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原師通、母:平貞経の娘 |
兄弟 | 忠実、家政、家隆、斎院女別当、女子、令子内親王宣旨、覚英、栖霞院姫君 |
妻 | 藤原盛実の娘 |
子 | 成隆、定国、昌隆、隆海、澄智、平忠盛妾、藤原忠章室 |
経歴
編集摂関家の子弟として生まれながら、母の身分が低かったことに加え、早くに父を喪ったこともあって、公卿昇任は果たせずに終わっている。永長元年12月26日(1097年1月12日)に元服。異母兄の忠実に近侍したとされ、忠実と同じく土佐守・藤原盛実の娘を室として、嫡子成隆を儲けている。また娘の一人(待賢門院女房)が平忠盛の側室となって、教盛を儲けたことでも知られている。
『中外抄』下巻第32条には、忠実の孫である興福寺権別当覚継が出家の身にあることに不満を述べていることに対し、忠実の家司であった中原師元が「覚継は忠実の引き立てがあるから仏教界においても今日の地位を得ているのであり、たとえ俗界にあったとしてもその後ろ盾が無ければ、家隆の地位をも越えることができないであろう」と語ったとあり、摂関家子弟であったとしても必ずしも栄達できる訳ではないことの事例として引き合いに出されている。