蕭円粛
経歴
編集南朝梁の武陵王蕭紀の子として生まれた。天正元年(552年)、蕭紀が帝号を称すると、宜都郡王に封じられ、侍中・寧遠将軍の位を受けた。蕭紀が軍を率いて長江を下ると、蕭撝が成都の留守をまもり、円粛は副として補佐した。天正2年(553年)、西魏の尉遅迥の軍が蜀に進攻してくると、円粛は蕭撝とともに降伏した。驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中の位を受け、安化県公に封じられた。
明帝元年(557年)、棘城郡公に進んだ。保定3年(563年)、畿伯中大夫の位を受けた。保定5年(565年)、咸陽郡太守に任じられた。天和4年(569年)に陵州刺史に転じ、まもなく衛国公宇文直に従って襄陽に駐屯するよう命じられたが、赴任しなかった。
建徳3年(574年)、太子少傅に任じられた。建徳6年(577年)、豊州刺史に任じられた。まもなく位は上開府儀同大将軍に進んだ。宣政元年(578年)、入朝して司宗中大夫となり、まもなく洛州刺史となった。大象2年(580年)、位は大将軍に進んだ。開皇元年(581年)、隋が建国されると、貝州刺史に任じられた。老齢の母の世話をするために辞職を願い出て、文帝に許された。
開皇4年(584年)、死去。享年は46。文集10巻があり、また当時の人により、かれの詩や文章は『文海』40巻や『広堪』10巻や『淮海乱離志』4巻としてまとめられた。