菅茶山
日本の江戸時代後期の儒学者、漢詩人 (1748-1827)
菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日)- 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。
菅茶山 | |
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『近世名家肖像』より | |
誕生 |
菅喜太郎 1748年2月29日 備後国安那郡川北村(現・広島県福山市神辺町) |
死没 | 1827年10月3日(79歳没) |
職業 | 儒学者・漢詩人 |
言語 | 日本語・漢文 |
ジャンル | 漢詩・随筆 |
代表作 | 『黄葉夕陽村舎詩』 |
経歴
編集農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した。
故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。
塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾と名が改められた。茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという[1]。詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))
廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など多数。墓所は神辺網付谷にある。
「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。2014年(平成26年)8月21日には「菅茶山関係資料」が国の重要文化財に指定された[3]。
脚注
編集- ^ 富士川英郎『江戸後期の詩人たち』麥書房、1966年、47頁。のち平凡社東洋文庫で再刊。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35
- ^ 「菅茶山関係資料」が、重要文化財に指定されました! 福山市、2022年8月27日閲覧。
参考文献
編集- 『菅茶山 頼山陽詩集』 水田紀久校訂・訳注、<新日本古典文学大系66>岩波書店、1996年。後者は頼惟勤・直井文子が担当
- 『筆のすさび、仁斎日礼ほか』 日野龍夫校注、<新日本古典文学大系99>岩波書店、2000年
- 『菅茶山 六如』 黒川洋一訳注、<江戸詩人選集四>岩波書店、1990年、復刊2001年
- 『菅茶山と頼山陽』 富士川英郎、平凡社〈東洋文庫〉、1971年、ワイド版2006年
- 『菅茶山 日本詩人選30』 富士川英郎、筑摩書房、1981年
- 『菅茶山』 富士川英郎、福武書店(2冊組)、1990年。大佛次郎賞受賞
- 『菅茶山とその時代』 小財陽平、新典社、2015年
- 『図録 菅茶山とその世界 黄葉夕陽文庫を中心に』 広島県立歴史博物館、1995年
- 菅茶山記念館では『特別展図録 菅茶山と頼家の人々』(1996年)ほかを発行。
- ※復刻版『筆のすさび』、「日本随筆大成1巻(第1期)」吉川弘文館 初版1927年