若林義孝
若林 義孝(わかばやし よしたか、1900年(明治33年)5月30日[1] - 1981年(昭和56年)5月17日[2])は、昭和時代の政治家。衆議院議員(2期)。福井県敦賀市長、大阪府箕面市長。
若林義孝 わかばやし よしたか | |
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生年月日 | 1900年5月30日 |
出生地 | 三重県上野市(現三重県伊賀市) |
没年月日 | 1981年5月17日(80歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法学部(現京都大学法学部) |
前職 | 学士会倶楽部大阪支部書記長 |
所属政党 |
(無所属→) (自由党→) (民自党→) |
選挙区 |
(岡山全県区→) 岡山1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1946年4月10日 - 1947年3月31日 1949年1月23日 - 1952年8月28日 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1956年4月29日 - 1965年7月31日 |
官選敦賀市長 | |
在任期間 | 1937年4月 - 1938年11月 |
経歴・人物
編集三重県上野市にて生まれる[2]。1927年(昭和2年)京都帝国大学法学部を卒業し、同大学生監事務嘱託を経て、国民同志会に入る[3]。同会では理事に進み、長らく国民の政治教育に傾倒した[3]。のち、学士会倶楽部大阪支部書記長を経て、1938年(昭和13年)12月12日に前福井県敦賀市長の森本一雄が逝去すると、同職の後任となった[3]。
ついで、日本人造皮革工業連合会長、黒住教顧問などを歴任[2]。1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙岡山全県区に自由党から出馬して当選し、第24回総選挙でも当選して計2期在任した[2]。さらに、1956年(昭和31年)から1965年(昭和40年)まで大阪府箕面市長を務めた[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 帝国自治協会 著『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
公職 | ||
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先代 新設 |
大阪府箕面市長 1956年 - 1965年 |
次代 黒山宣雄 |
議会 | ||
先代 中山マサ |
衆議院海外同胞引揚に関する特別委員長 | 次代 廃止 |
官職 | ||
先代 森本一雄 |
福井県敦賀市長 1938年 - 1940年 |
次代 末原貫一郎 |