花柳壽太郎
初代 花柳 壽太郎(はなやなぎ じゅたろう、1901年(明治34年)3月6日 - 1967年(昭和42年)1月25日)は、日本舞踊家。本名は仁科 周雄。
しょだい はなやぎ じゅたろう 初代 花柳 壽太郎 | |
生年月日 | 1901年3月6日 |
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没年月日 | 1967年1月25日(65歳没) |
本名 | 仁科周雄 |
出身地 | 日本・東京府東京市赤坂区 |
子 | 十代目岩井半四郎 |
経歴
編集明治の末、花柳流分家徳太郎に入門、その後2代目花柳壽輔に師事、1919年(大正8年)寿太郎を襲名。
昭和初期、「花柳舞踊研究会」の常連として「彦根屏風」「新編曲越後獅子」「阿蘭陀万才」などに出演。寿輔一門の「二十四日会」メンバーで、常磐津による異色作「オフェリヤ」「ジキルとハイド」に次いで「ベニスの夕」「成吉思汗」などを発表。
戦後には「雪おんな」「蟬丸」「義経」「醍醐の花見」などの振付発表作品があり、2代目市川猿之助一座の振付も行った。花柳流理事。
子は歌舞伎役者の10代目岩井半四郎。孫は女優で日本舞踊家の岩井友見、女優の仁科亜季子、仁科幸子。曾孫は俳優の仁科克基、タレントの仁科仁美。義兄(姉の夫)に雑誌記者の鶯亭金升や浮世絵師の土屋光逸がいる。