義村 朝明(よしむら ちょうめい、道光10年/文政13年9月11日(1830年10月27日) - 光緒23年/明治30年(1898年)1月9日)は、琉球王国末期の官僚・政治家、義村御殿3世当主。琉球独立運動の中心人物で知られる。唐名は向志礼(しょうしれい)。正式な呼称は義村按司朝明。

道光10年(1830年文政13年)、実父向文輝・奥武親方朝昇の五男として首里で生まれる。道光27年(1847年)、義村御殿は跡継ぎがいないため、分家から朝明を養子を迎えた。東風平間切の総地頭となり、疲弊した間切の再建に功があった。

1879年(明治12年、清国光緒4年)、明治政府は琉球王国が併合強要(琉球処分)、国王尚泰東京へ連行、同年中に沖縄県を設置した。朝明は琉球処分に反対して、頑固党を指導した。日清戦争中、国勝利祈願運動を展開した。清国の敗戦により清国へ長男・小城按司朝真とともに亡命、「琉球独立」を清国に訴える。1898年に福州柔遠駅で亡くなった。68歳没。

系譜

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  • 室:思戸金(馬氏内間親雲上良経の娘)
    • 長男:向明良・小城按司朝真
    • 長女:眞蒲戸 
  • 継室:眞蒲戸金(尚健・伊江王子朝忠の娘)
    • 次男 向明徳・義村按司朝義
    • 四男 向明通
    • 六男 向明錦
    • 三女 眞鶴金
    • 九男 向明秀
  • 妾 牛(西原間切小橋川村百姓呉屋筑登之の娘)
    • 三男 向明遠
    • 五男 向明達
    • 次女 思戸金
    • 七男 向明廉
    • 八男 向明藹

関連項目

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参考文献

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先代
義村朝章
義村御殿
1847年 - 1898年
次代
義村朝義