義村 朝義(よしむら ちょうぎ、1866年(慶応2年)-1945年(昭和20年))は、琉球王国末期に生まれた琉球王族であり、義村御殿4世当主。書道や絵画をよくし、また、空手(唐手)家としても知られる。

按司の正装をする義村朝義

生涯

編集

義村朝義は、1866年(慶応2年)9月27日、義村御殿3世・義村按司朝明の次男として首里赤平村(現・那覇市首里赤平町)に生まれた。唐名は向明徳、号は仁斎もしくは得寿。童名は思亀(うみかめ)といった。義村御殿は、尚穆王の三男・義村王子朝宜を元祖とする琉球王族で、代々東風平間切(現・八重瀬町東風平地区)を領する大名家であった。父・朝明は頑固党(反日派)の中心人物で、1896年(明治29年)に琉球独立陳情のため清国へ長男・朝真とともに亡命した。朝義の母・真蒲戸は伊江御殿の伊江王子朝直の長女であった。また、朝義は本部御殿本部朝基とはいとこだった[1]

 
日本刀を手にする空手着姿の義村朝義

義村朝義は、「『権門の次男坊』として、広大な御殿の中に育ち、多くの奉公人にかしずかれて、気随気ままにふるまっていた」[2]が、11、2歳の頃より空手を習うようになった。最初の師匠は、義村御殿の総聞(会計・事務職)だった老人某で、ナイファンチとパッサイを教わった。17、8歳の頃からは、兄・朝真とともに首里手松村宗棍に師事して五十四歩とクーサンクーの型、さらに棒術と剣術を教わった。

22、3歳の頃からは、那覇手東恩納寛量にも師事した。当初、首里から月三回ほど通い、後には首里の邸宅へ出張してもらい、「サンシン」(ママ)とペッチウリンを習得した。ほかにも10歳の頃より馬術を習い、19歳から23歳まで有名な馬術の師匠・真喜屋に師事した。屋敷内に木馬があり、まずそれで型を一通り稽古したあと、識名の馬場で実習したという。

父、兄が亡命したため、朝義は1897年(明治30年)、家督を継ぎ義村御殿の当主となった。その後、父・朝明は1898年(明治31年)に、兄・朝真は1906年(明治39年)に福州で客死している。朝義は家督を継いだ直後の1898年(明治31年)、父亡命のため明治政府から家禄の支給を停止された。このためか、同年から中国茶を輸入する茶商の商売を始め、1904年(明治37年)にはパナマ帽子製造の会社を設立するなど、事業を拡大して一時は隆盛を誇ったが、次第に行き詰まるようになった。晩年には、東京や大阪に住まいを移し、書画や空手、三味線などを満喫する文人生活を送った。1945年(昭和20年)3月14日、大阪空襲に遭い死去。享年80。1979年(昭和54年)、遺族から朝義作の書画約50点が沖縄県立博物館に寄贈されたのを機会に、1981年(昭和56年)に同博物館にて「義村朝義展」が開催された。

脚注

編集
  1. ^ 「魚眼レンズ・宮城篤正さん」(沖縄タイムス2009年9月2日記事)に「本部朝基のいとこだった義村朝義は空手の名手でもあった。そして書もたしなむなど、王朝時代に士族の男子に求められた“文武両道”の人だった」との紹介がある[1]
  2. ^ 義村仁斎「自伝武道記」(『月刊文化沖縄』昭和16年9月15日、図録「義村朝義展」所収)

参考文献

編集
  • 図録「義村朝義展」沖縄県立博物館、1981年。
  • 高宮城繁、新里勝彦、仲本政博編著『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年。 ISBN 978-4760133697

関連項目

編集