織田長迢
織田 長迢(おだ ながとお)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本・茶人。通称は多門、平八郎。官位は従四位下・侍従、隼人正。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永19年(1642年) |
死没 | 享保3年1月18日(1718年2月17日) |
改名 | 長迢→自斎(号) |
別名 | 通称:多門、平八郎 |
官位 | 従四位下・侍従、隼人正 |
幕府 | 江戸幕府高家旗本 |
主君 | 徳川綱吉 |
氏族 | 高家織田氏 |
父母 | 父:織田貞置、母:佐久間正勝娘 |
兄弟 |
長迢、貞則、貞輝など4男3女 養兄弟:貞幹 |
妻 | 正室:織田信昌長女 |
子 | 津田長経、長能、鳥居忠丘室 |
生涯
編集高家旗本織田貞置の長男として誕生した。
万治2年(1659年)7月11日、部屋住ながら書院番に召し出された。後に父・貞置が高家に就任したことで解職となった。天和2年(1682年)6月2日、貞置の隠居により家督を相続した。相続の際に弟の貞則に300石を分けたため、家禄は700石となった。天和3年(1683年)2月13日、高家職に就任し、翌月、従四位下・隼人正に叙任された。元禄5年(1692年)3月23日、高家職を辞職し、寄合に所属した。元禄15年(1702年)6月23日に隠居し、次男の長能に家督を譲った。以後、自斎と称した。
享保3年(1718年)1月18日死去、享年77。墓地は東海寺清光院にある。以後、歴代の当主が同院に葬られた。明治期に15基の供養塔が一つにまとめられた。
父の貞置から有楽流の茶道を学んでいる。