織田長政 (旗本)

日本の江戸時代前期~中期の武士。大和宇陀松山藩2代藩主織田高長三男で、交代寄合旗本(1代限り。大和宇陀郡内3000石)。従五位下式部少輔・対馬守

織田 長政(おだ ながまさ)は、江戸時代前期の旗本。名は友貞とも。通称は右兵衛、数馬助、式部。官位従五位下式部少輔対馬守。幕府定火消

 
織田長政
時代 江戸時代前期
生誕 寛永5年(1628年
死没 元禄3年10月26日1690年11月26日
別名 友貞、通称:右兵衛、数馬助、式部
墓所 東京都練馬区広徳寺
官位 従五位下式部少輔対馬守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家綱綱吉
氏族 織田氏(長政流高家)
父母 父:織田高長、母:富田氏娘
兄弟 津田勝広長頼長政信久
津田頼房杉原重長継室、
織田政時正室、織田一之室、
土方氏陣室、平野長政正室など
正室:松平英親養女
信明信清長喬遠山友春継室
テンプレートを表示

生涯

編集

大和国宇陀松山藩主・織田高長の三男として誕生した。生母は富田氏。

承応3年(1654年)12月28日、従五位下・式部少輔に叙任する。後に対馬守に改める。万治3年(1660年)9月10日、兄・長頼から大和宇陀郡内10ヵ村で3000石を分与される。始め陣屋を西峠村に構え、後に福知村に移転した。そのため、「福知の殿様」と称されたようである。また、分家にあたり、宇陀松山藩士中山甚五兵衛・田村可左衛門らを家来としてつけられる。同年11月28日、領地に赴く許可を得る。長政は参勤交代をする旗本、すなわち交代寄合であった。なお、子の信明の代に高家旗本になる。

元禄3年(1690年)10月26日、死去。享年63。墓地は広徳寺にある。

系譜

編集

子女は3男1女。