織田秀一
織田 秀一(おだ ひでひと/ひでかず)は、江戸時代前期の大名。大和国柳本藩3代藩主。通称は源十郎。官位は従五位下・信濃守。尚長流織田家3代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永16年(1639年) |
死没 | 貞享4年8月3日(1687年9月9日) |
改名 | 長盛(初名)→秀一 |
別名 | 通称:源十郎 |
戒名 | 円常院殿梅嶺指月居士 |
墓所 | 東京都渋谷区祥雲寺 |
官位 | 従五位下・信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 大和柳本藩主 |
氏族 | 織田氏(長益系尚長流) |
父母 | 父:織田長種、母:小出三尹娘 |
妻 |
正室:小出有棟娘 側室:あり |
子 | 秀親、成純 |
生涯
編集2代藩主・織田長種の長男として誕生。初名は長盛。
寛永20年(1643年)12月7日、父・長種の死去により家督を相続した。寛永21年(1644年)11月13日、3代将軍・徳川家光に御目見する。正保3年(1646年)6月2日、神田橋石普請の助役を命じられる。万治3年(1660年)4月19日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下信濃守に叙任する。
寛文6年(1666年)5月13日、丹後国宮津藩主・京極高国の改易にあたって、家臣を派遣し、領内の巡視にあたることを命じられる。寛文7年(1667年)、駿府加番を命じられた。延宝4年(1676年)、近江国水口城在番を命じられた。
貞享4年(1687年)8月3日、死去。享年49。墓所は祥雲寺。法号は円常院殿梅嶺指月居士。
なお、『土芥寇讎記』には「秀一ハ才智発明ニシテ、武道ヲ嗜ミ、行跡正シク、家士ヲ憐ミ、民ニ恵ミテ、仕置穏順ニシテ、家民豊カナリシ」とあり、大名としての評価は良い。
系譜
編集子女は2男。