紀元前411年
年
紀元前411年(きげんぜん411ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前6世紀 - 前5世紀 - 前4世紀 |
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十年紀 |
前430年代 前420年代 前410年代 前400年代 前390年代 |
年 |
前414年 前413年 前412年 紀元前411年 前410年 前409年 前408年 |
当時は、「ムギラヌスとルティルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元343年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前411年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
編集できごと
編集ギリシア
編集- アテナイの民主主義体制が、アンティポン、テラメネス (Theramenes)、ペイサンドロス 、プリュニコス (Phrynichos) といった、 スパルタやその同盟国に対する戦争に力を注ぐことを求める極端寡頭派によって倒され、いわゆる「四百人寡頭政」が成立した。アテナイによるシケリア(シチリア)遠征は、完全な失敗に終わり、その後に続いた多くの従属的同盟者たちの反乱は、アテナイの財政を極端に悪化させた。革命運動の大義が、体制変革による財政再建であったにもかかわらず、財政は悪化した。しかし、高圧的な統治を行なった四百人寡頭政は、4か月間しか存続できなかった。
- アテナイの外港であるペイライエウス(現在のピレウス)の城塞化に従事していた軍部隊で反乱が発生した際、寡頭政権は鎮圧にあたるべくテラメネスを派遣した。ところが、テラメネスは自らが反乱者側に就いてその指導者となった。極端寡頭派の指導者であったプリュニコス (Phrynichos) が暗殺されると、その後のアテナイの民会は四百人寡頭政を廃止し、伝統的な体制を復活させたが、市民の特権の一部は「五千人の政治」と称される組織によって制限されることになった。民会は、市民全員から成る委員会という形で、旧来の姿を取り戻した。
- トラシュブロスに率いられたアテナイの艦隊は、サルディスにいたアルキビアデスを呼び返した。アルキビアデスの選出は、テラメネスの求めにより、アテナイの民会でも追認された。トラシュブロスとアルキビアデスが指揮したアテナイ艦隊は、キュノッセマの海戦 (Battle of Cynossema) でヘレスポントス(ボスポラス海峡)にいたスパルタ艦隊を撃破した。
- アンティポンは、死刑を求刑された男による弁明としては史上最高の演説であったとトゥキディデスが評した自己弁護を行なった。しかし、告訴したものたちを説得することはできず、反逆罪で処刑された。
文学
編集- エウリピデスの悲劇『タウリケのイピゲネイア (Iphigenia in Tauris)』が上演された。
- アリストパネスの喜劇『女の平和』が上演された。
誕生
編集→「Category:紀元前411年生」も参照
死去
編集→「Category:紀元前411年没」も参照
脚注
編集注釈
出典