第106親衛空挺師団 (ロシア空挺軍)
ロシア空挺軍の部隊
第106親衛空挺師団(だい106しんえいくうていしだん、ロシア語: 106-я гвардейская воздушно-десантная дивизия、略称:106 гв.ВДД)は、ロシア空挺軍の師団。空挺軍司令部隷下。トゥーラ州トゥーラ駐屯。
第106親衛空挺師団 | |
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創設 | 1944年1月15日 |
所属政体 |
ソビエト連邦 → ロシア |
所属組織 | ロシア空挺軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵科 | 空挺兵 |
兵種/任務 | 空挺作戦 |
所在地 | トゥーラ州トゥーラ |
愛称 | トゥーラ |
標語 |
遂行できない任務はない Нет задач невыполнимых' |
上級単位 | 空挺軍司令部 |
戦歴 |
第二次世界大戦 トランスニストリア戦争 第一次チェチェン紛争 第二次チェチェン紛争 シリア内戦 ロシアのウクライナ侵攻 |
指揮官 | ウラジミール・セリヴィオルストフ大佐 |
部隊として赤旗勲章および2等クトゥーゾフ勲章の受章歴がある。1988年から1991年にかけてアレクサンドル・レベジが師団長を務めていた。
沿革
編集第二次世界大戦
編集- 1944年1月15日:モスクワ郊外において、第16親衛空挺師団編成。
- 1944年8月:モギリョフ州スタールイエ・ダローギ市に移転し、第9親衛軍第38親衛狙撃軍団に編入。
- 1944年12月:第106親衛狙撃師団に改編
- 1945年1月~2月:ブダペスト東部に集結。
- 1945年3月:ヴェルシェグ-ブダケシ-ファチ-ビチケ地区において攻撃発起点を確保する任務を受領。3月18日までに、シャルヴィズ及びガイヤ川を渡河し、モル市を占領。3月25日、パパ市を迂回。3月29日、攻勢転移し、3月30日、ハンガリー・オーストリア国境を横断、その後、軍団の第2梯隊となる。
- 1945年4月:軍団がウィーンを奪取し、師団に赤旗勲章を授与。4月16日、ウィルヘルムズベルクを占領。
- 1945年4月26日:モル市奪取の功績に対して、二等クトゥーゾフ勲章授与。師団の創設日。
- 1945年5月:オーストリア・チェコスロバキア国境に進出し、5月8日、国境を横断、ズノイモ市を占領。5月11日、オレシュニャ市北東で、アメリカ第5戦車軍と会合。
戦後
編集- 1946年6月:第106親衛空挺師団に改編
- 1946年7月:ソ連トゥーラに帰還。
- 1947年12月3日:師団に親衛軍旗授与。
- 1956年:空挺軍司令官直轄部隊となる。
- 1957年~:人工衛星、宇宙船の着地保障に従事。
- 1988年2月~:ザカフカーズと中央アジアで、特殊任務。
- 1988~1989年:ザカフカーズ地域において、特殊任務を遂行。
ロシア連邦
編集- 1992年:国連安保理の決定により、セルビア・クロアチア紛争調停のため、平和維持軍を東スラボニアに派遣。
- 1992年:駐カーブル大使館員の救助作戦。
- 1992年10~11月:混成連隊を編成し、北オセチアに派遣。
- 1994年11月~1995年4月:チェチェン共和国において、特殊任務を遂行。
- 1999年9月:師団と配下の全落下傘連隊に対して、国防相旗を授与。
- 2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻に参加して北部キーウ州で攻勢を開始したが、3月にイルピンで撃退された。
- 2022年5月、北東部ハルキウ州イジューム地区に再配置されていたが、部隊は大損害を受け、第4親衛戦車師団と共にウクライナから撤退した[1]。
- 同年7月8日、ウクライナ軍守備隊に司令部を攻撃され、28人以上が死亡(司令官は軽傷、副司令官2人が死亡)[2][3][4]。同月10日、ドネツィク州ホルリウカ地区シャフタルスクでHIMARSによるミサイル攻撃を受け、1人の副司令官を除く全員が死亡したと報道されている[5]。
東部・バフムート戦線
編集→「バフムートの戦い」も参照
2023年6月、ワグネル・グループの交代部隊として東部ドネツィク州バフムート地区に再配置された。損害で劣化した部隊と評価されている[6]。
編制
編集- 師団司令部(トゥーラ)
- 第51親衛落下傘連隊
- 第137親衛落下傘連隊
- 第1182親衛砲兵連隊
- 第107独立親衛高射ミサイル大隊
- 第173親衛偵察大隊
- 第322独立親衛工兵大隊
- 第731独立親衛通信大隊
- 第43独立整備大隊
- 第110独立軍事輸送航空飛行隊
歴代師団長
編集職名 | 就任年 | 氏名 | 階級 |
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師団長 | 1943年 - 1944年 | アレクサンドル・カザンキン | 親衛少将 |
師団長 | 1944年 - 1946年 | イワン・ヴィンドゥシェフ | 親衛少将 |
師団長 | 1946年 - 1947年 | イワン・コーネフ | 親衛少将 |
師団長 | 1947年 - 1949年 | アファナシー・コプイチコ | 親衛少将 |
師団長 | 1949年 - 1951年 | アレクサンドル・エパンシン | 親衛大佐 |
師団長 | 1951年 - 1955年 | アレクサンドル・ゲラシモフ | 親衛少将 |
師団長 | 1955年 - 1960年 | アレクサンドル・コレシチェンコ | 親衛少将 |
師団長 | 1960年 - 1961年 | マガメト・タンカエフ | 親衛少将 |
師団長 | 1961年 - 1964年 | コンスタンチン・クロチキン | 親衛大佐 |
師団長 | 1964年 - 1969年 | ユーリー・ポタポフ | 親衛少将 |
師団長 | 1969年 - 1972年 | アレクサンドル・プルイトコフ | 親衛少将 |
師団長 | 1972年 - 1976年 | アナトーリー・ドブロヴォリスキー | 親衛少将 |
師団長 | 1976年 - 1980年 | エウゲニー・ポドコルジン | 親衛少将 |
師団長 | 1980年 - 1984年 | ゲンナジー・フィラトフ | 親衛少将 |
師団長 | 1984年 - 1988年 | ヒョードル・セルジェーチヌイ | 親衛少将 |
師団長 | 1988年 - 1991年 | アレクサンドル・レベジ | 親衛少将 |
師団長 | 1991年 - 1993年 | アレクサンドル・コルマコフ | 親衛少将 |
師団長 | 1993年 - 2004年 | エウゲニー・サヴィロフ | 親衛少将 |
師団長 | 2004年 - | アンドレイ・セルジュコフ | 親衛少将 |
脚注
編集出典
編集- ^ Russian army continues offensive in Eastern Operational Zone to reach Donetsk, Luhansk regions – AFU General Staff インテルファクス通信
- ^ “Два полковника погибли, еще двое - ранены: ВСУ уничтожили пункт управления российской дивизии ВДВ” (ロシア語). glavred.info (2022年7月14日). 2022年8月14日閲覧。
- ^ “На Украине погиб полковник, командовавший в Туле парадом в 2018 году” (ロシア語). newstula.ru (2022年7月15日). 2022年8月14日閲覧。
- ^ “Roman Tsymbaliuk”. www.facebook.com (2022年7月14日). 2022年8月14日閲覧。
- ^ “Все, кроме одного: в районе Шахтерска погибли заместители командира 106 дивизии” (ロシア語). 24 Канал (2022年7月12日). 2022年8月14日閲覧。
- ^ Russian Offensive Campaign Assessment, June 3, 2023 戦争研究所