第百四十二号海防艦
第百四十二号海防艦[注釈 2](だいひゃくよんじゅうにごうかいぼうかん)は、日本海軍の 第二号型海防艦(丁型)。太平洋戦争終戦後に就役し、復員輸送に従事した。
第百四十二号海防艦 | |
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映画『海阔天空』の撮影で使用される護衛艦48号(艦番号が変えてある) | |
基本情報 | |
建造所 | 川崎重工業泉州工場 |
運用者 | 第二復員省/復員庁 |
艦種 |
海防艦(194年月) 特別輸送艦(1946年4月) |
級名 | 第二号型海防艦 |
建造費 | 5,363,000円(予算成立時の価格) |
艦歴 | |
計画 | マル戦計画 |
起工 | 1945年1月20日 |
進水 | 1945年5月8日 |
竣工 | 1946年4月7日 |
最期 | 賠償艦として引渡し |
要目(竣工時) | |
基準排水量 | 740トン |
全長 | 69.50m |
最大幅 | 8.60m |
吃水 | 3.05m |
機関 | 艦本式甲25型1段減速式オールギヤード蒸気タービン1基 |
ボイラー | 艦本式ホ号空気予熱器付重油専焼水管缶2基 |
推進 | 1軸 |
出力 | 2,500shp |
速力 | 17.5ノット |
燃料 | 重油240トン |
航続距離 | 14ノットで4,500カイリ |
乗員 | 定員141名[注釈 1] |
兵装 |
計画時 ・45口径12cm高角砲 単装2基 ・25mm機銃 3連装2基 ・三式爆雷投射機12基 ・爆雷120個 終戦時 |
搭載艇 | 短艇3隻 |
レーダー | 22号電探1基 |
ソナー |
九三式水中聴音機1基 九三式水中探信儀1基 |
艦歴
編集第二復員省時代
編集川崎重工業泉州工場で建造中に竣工度60%で終戦。引揚用の特別輸送艦としてGHQの許可を得た上で工事を続行。1946年4月7日竣工。直ちに呉に回航、復員輸送に従事し上海へ向け出港。博多に帰還するとその後博多とコロ島を5往復、コロ島から大沽、大沽からコロ島経由で博多港への復員任務をこなした。11月上句、艦長が川本昇に交替。12月まで博多とコロ島を3往復した。12月10日特別保管艦となり、佐世保に係留。1947年7月29日初桜、桐、生野、海防艦第52号、第78号、第79号、第221号とともに賠償艦としてナホトカにてソ連に引き渡し。
ソ連海軍及び人民解放軍海軍時代
編集ソ連では、「護衛艦」を意味する「EK」の略号を与えられ、EK-38(ЭК-38)の艦名で太平洋艦隊に編入された。10月にウラジオストクに回航。1948年7月5日標的曳航艦TsL-38。 1949年6月17日通報艦Arhara。 1952年旅順の第102船舶修理工場においてSKR-49(旧第七十六号海防艦)と機雷敷設艦ヴィリュイ(旧神島型敷設艇神島)とともに通報艦に改造、兵装を搭載し警備艦SKR-48となった。ソ連に引き渡された日本艦のうちまともに再武装されたのはこの3隻のみだった。SKR-48はMk.22 3インチ単装緩射砲を二基、エリコン20mm単装機銃を四基とNeptun型レーダーとFakel-M型識別装置を装備した[1]。SKR-48は1954年11月17日旅順基地第115海防旅団に配属[2]。。SKR-48、SKR-49、ヴィリュイの三隻は1955年2月11日に旅順において中国人民解放海軍に譲渡された。3隻は兵装や一部船用機器を除いて無償で引き渡された[1]。 中国人民解放軍に引き渡されたSKR-48は護衛艦48号と名付けられ、1950年代初頭旅順基地で数少ない主力艦艇の1 隻であった。1955年9月には遼東半島で護衛艦49号(旧海防艦第76号)などの華北軍区海軍の艦艇と共に対上陸作戦演習に参加した。1961年には船番「219」が付与され、北海艦隊護衛艦第7中隊を編成した[3]。黄海海戦を描いた1962年の映画『甲午風雲』では護衛艦49号や護衛艦50号(旧神島型敷設艇神島)とともに撮影に使用され、清国海軍の戦艦定遠や日本海軍の巡洋艦吉野を演じた[4]。護衛艦48号は1970年代末に退役し、1980年代末に標的艦としてYJ-8ミサイルの射撃目標として使用され海没した[3]。
海第百四十二号艦長
編集- 海防艦長/艦長
- 佐々木正勝 復員事務官:艦長 1946年4月- 1946年11月
- 川本昇 復員事務官:艦長 1947年11月- 1947年12月
脚注
編集- 注釈
- 脚注