立花鑑任
立花 鑑任(たちばな あきたか)は、筑後国柳河藩の第4代藩主。
立花鑑任像(福厳寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 天和3年1月7日(1683年2月3日) |
死没 | 享保6年5月13日(1721年6月7日) |
改名 | 大助/勝千代(幼名)、鑑任、宗政、鑑春、鑑常、宗昌 |
戒名 | 霊明院殿常心法鑑大居士 |
墓所 | 霊明寺 |
官位 | 従四位下飛騨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 筑後柳河藩主 |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花鑑虎、母:本多康長の娘・真光院 |
兄弟 | 千熊丸、小出英益継室、鑑任、岩次郎、小野隆幸室、呂久姫 |
妻 | 正室:池田綱政の娘・春子 |
子 |
勝千代 養子:貞俶 |
第3代藩主・立花鑑虎の次男。母は膳所藩主家一族本多康長の娘・真光院。正室は池田綱政の娘。諱(実名)は鑑任のほか、宗政(むねまさ、宗昌とも)、鑑春(あきはる)、鑑常(あきつね)を一時期名乗っていた。幼名は大助、勝千代。
生涯
編集天和3年1月7日(1683年2月3日)、江戸にて生まれる。長兄が早世していたため、元禄9年(1696年)7月に父が隠居する家督を継いだ。翌元禄10年(1697年)、叔父の立花貞晟に5,000石を分与している。貞晟を信頼しており、江戸留守居役に貞晟の意見を仰ぐように指示を出している[1]。また同年、別業御茶屋集景亭が完成する。これは現在の立花邸御花の前身である。
元禄16年(1703年)、江戸大地震による普請手伝いを命じられた。その後も朝鮮通信使の警護役を勤めたほか、田尻惣馬を登用して柳河城の修築、石垣普請などで手腕を見せた。
享保6年5月13日(1721年6月7日)、柳河にて39歳で死去。葬地は霊明寺。実子の勝千代が早死して嗣子なく末期養子の清直(後の貞俶)が跡を継いだ。
官位履歴
編集系譜
編集偏諱を賜った家臣
編集以下は鑑任より一字拝領をうけた家臣。鑑任は先述のとおり諱を宗政、鑑春、鑑常、宗昌と名乗った時期がある。
鑑春時代
- 小野春信(おの はるのぶ、1683-1754)
脚注
編集- ^ 「柳川市史別冊 図説立花家記」
参考文献
編集- 『新訂寛政重修諸家譜・第2』続群書類従刊行会、昭和39年。
- 「旧柳川藩志」(柳川・山門・三池教育会編、1957年)
- 「柳川市史別冊 図説立花家記」(柳川市史編集委員会編集、2010年3月30日発行)