稲村稔夫
稲村 稔夫(いなむら としお、1928年(昭和3年)8月16日[1][2][2][3] - 2000年(平成12年)3月12日[1][2])は、日本の教育者、政治家。参議院議員、新潟県三条市長。
稲村 稔夫 いなむら としお | |
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生年月日 | 1928年8月16日 |
出生地 | 東京都 |
没年月日 | 2000年3月12日(71歳没) |
出身校 | 北海道大学農林専門部卒業 |
所属政党 |
(日本社会党→) 新社会党 |
親族 |
父・稲村順三(元衆議院議員) 伯父・稲村隆一(元衆議院議員) |
選挙区 | 新潟県選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1983年7月10日 - 1995年7月22日 |
旧三条市長 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1972年7月9日 - 1976年7月8日 |
経歴
編集東京都出身[1][2]。1948年(昭和23年)北海道大学農林専門部を卒業[1][2][4]。同年5月、北海道虻田郡倶知安町立倶知安中学校教諭[3]、1950年(昭和25年)北海道歌志内高等学校教諭[3]を歴任し[4]、日本教職員組合でも活動した[要出典]。
その後、日本社会党本部書記に転じ、同党中央本部農民部副部長などを務め[1][2][4]、沖縄返還要求運動、原水爆禁止運動、農民運動などを担当[4]。1969年(昭和44年)父の出身地の三条市に移り[4]、新潟県本部書記次長、日本農民組合新潟県連役員などに在任[1][2][4]。1969年(昭和44年)12月の第32回衆議院議員総選挙に立候補したが落選した[5]。
1972年(昭和47年)の三条市長選に出馬して初当選し[1][4]、三条市は革新自治体となるが、次の市長選挙では落選し1976年(昭和51年)7月まで1期在任[2]。この間、社会福祉の向上、公害対策の推進、教育・体育設備の整備に尽力した[3]。
1978年(昭和53年)4月の新潟県知事選挙に社会党・共産党の推薦を得て立候補するも、自民党公認の現職の君健男に敗れた[6]。
1983年(昭和58年)第13回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で新潟県選挙区より出馬し、初当選[2]。1989年(平成元年)第15回通常選挙でも再選され、参議院議員に2期在任[1][2][4]。この間、参議院建設委員長、社会党新潟県本部執行委員長、三条商工連盟会長、北信越中小企業連絡協議会長、日農南蒲地区協議会長、全国中小商工団体連絡会常任理事なども務めた[4]。
1995年(平成7年)第17回参議院議員通常選挙は出馬を見送り、1996年(平成8年)には新社会党に党籍を変え、第41回総選挙で新潟2区に新社会党から立候補したが落選した[7]。
国政選挙歴
編集- 第32回衆議院議員総選挙(新潟県第3区、1969年12月、日本社会党公認)落選[5]
- 第13回参議院議員通常選挙(新潟県選挙区、1983年6月、日本社会党公認)当選[8]
- 第15回参議院議員通常選挙(新潟県選挙区、1989年7月、日本社会党公認)当選[8]
- 第41回衆議院議員総選挙(新潟2区、1996年10月、新社会党公認)落選[7]
親族
編集エピソード
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h 『現代物故者事典 2000-2002』70頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『現代政治家人名事典』57頁。
- ^ a b c d 『日本の歴代市長 第2巻』68頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』251頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』172頁。
- ^ “新潟県・県知事選”. 政治データのブログ (2019年2月24日). 2023年10月12日閲覧。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』175頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』453頁。
参考文献
編集- 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 『現代物故者事典 2000-2002』日外アソシエーツ、2003年。
- 『現代政治家人名事典 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
関連項目
編集公職 | ||
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先代 渡邉常世 |
新潟県旧三条市長 1972年 - 1976年 |
次代 滝澤賢太郎 |
議会 | ||
先代 村沢牧 |
参議院建設委員長 1988年 - 1989年 |
次代 対馬孝且 |
先代 鈴木和美 |
参議院災害対策特別委員長 | 次代 西岡瑠璃子 |