秋元泰朝
秋元 泰朝(あきもと やすとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。上野国総社藩主、甲斐国谷村藩主。官位は従五位下・但馬守。館林藩秋元家2代。徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。
秋元泰朝 | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正8年(1580年) |
死没 | 寛永19年10月23日(1642年12月14日) |
改名 | 孫七郎(幼名)、泰朝 |
別名 | 茂兵衛(通称) |
戒名 | 照尊院殿道哲泰安大居士 |
墓所 | 群馬県前橋市総社町総社の光巌寺 |
官位 | 従五位下・但馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光 |
藩 | 上野総社藩主、甲斐谷村藩主 |
氏族 | 秋元氏 |
父母 | 秋元長朝 |
兄弟 | 泰朝、小笠原某室、渋川某室 |
妻 | 大河内秀綱の娘 |
子 | 富朝、忠朝、正朝 |
生涯
編集天正8年(1580年)、秋元長朝の子として誕生した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣後、大坂城の堀の埋立に功績があった。豊臣家滅亡後の残党狩りも行った。
元和9年(1623年)2月、越前国北ノ荘藩(福井藩)主の松平忠直が幕府により改易となったのち、7月に近藤秀用、曽根吉次、阿倍正之らと共に泰朝が派遣され、松平家の相続に関する伝達を行い、当主不在の越前の国務を行っている。
寛永5年(1628年)、父・長朝の死により秋元家の家督を相続する。寛永10年2月3日(1633年3月12日)、甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩の城代として1万8000石に封ぜられる。寛永13年(1636年)には、日光東照宮の造営で総奉行を務めた。
寛永19年(1642年)、この頃は全国的に深刻な寛永の大飢饉の最中であり、泰朝も対策にあたっていたが、10月23日に急死した。
系譜
編集父母
- 秋元長朝(父)
正室
- 大河内秀綱の娘
子女
養子