秋元忠朝
秋元 忠朝(あきもと ただとも)は、江戸時代前期の旗本。官位は従五位下・隼人正。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和4年(1618年) |
死没 | 慶安3年9月28日(1650年10月23日) |
改名 | 光朝(初名)、忠朝 |
別名 | 右馬允、隼人(通称) |
戒名 | 英長院殿性盛元心大居士 |
墓所 | 群馬県前橋市総社町総社の光巌寺 |
官位 | 従五位下・隼人正 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家光 |
氏族 | 秋元氏 |
父母 | 秋元泰朝、大河内秀綱娘 |
兄弟 | 富朝、忠朝 |
妻 | 松平信綱の三女久満 |
子 |
右馬允、秋元富朝養女、時朝、 秋元喬知正室、成朝 |
略歴
編集寛永11年(1634年)7月の徳川家光上洛に同行。寛永12年(1635年)9月3日より御傍に近侍する。寛永15年(1638年)12月30日、従五位下・隼人正に叙任される。寛永17年(1640年)4月10日に相模国高座郡で1000石を、正保元年(1644年)4月26日には上総国天羽郡・望陀郡で更に3000石を与えられ、4000石を領し、御側に准ぜられる。
慶安3年(1650年)9月28日に33歳で死去。法名は英長院殿性盛元心大居士[1]。甲斐国谷村の泰安寺に葬られた後、群馬県前橋市の光巌寺に改葬された。
系譜
編集脚注
編集- ^ 『昭和56年度文化財調査報告書 第12集』(前橋市教育委員会、1982年)
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第九百五十八