福地城
福地城(ふくちじょう)は、三重県伊賀市柘植字浦出にあった日本の城(丘城・城館)。
福地城 (三重県) | |
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福地城主郭虎口 | |
別名 | 福地氏城 |
城郭構造 | 丘城、城館 |
築城主 | 福地氏 |
主な改修者 | 福地宗隆(福地伊予) |
主な城主 | 福地氏、池尻氏[1] |
廃城年 | 天正10年6月(1582年6月) |
遺構 | 主郭、大手門礎石、土塁、石塁、空堀、石組井戸、石列、土壇、階段 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度50分9秒 東経136度14分55秒 / 北緯34.83583度 東経136.24861度 |
概要
編集城主
編集城主の福地氏は、平清盛の末裔を称した土豪で[2]、柘植の有力な国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)[3]」を構成した氏族[4]。祈願寺は長福寺(現・万寿寺)と推定され、本尊の地蔵菩薩像の内部から発見された南北朝時代の文書に「ふくちの御てら」とある[5]。この文書には「やなき」という女性から「ふくちの御てらの了賢房」へ宛てた書状が含まれるが、了賢房はやなきの子で、いずれも福地氏の一族と推定される[6]。福地氏は正長2年(1429年)に室町幕府から関氏の討伐を命じられており、この頃既に柘植を代表する国人に成長していたことが確認できる[4]。天正9年(1581年)に織田信雄が伊賀国を攻めた天正伊賀の乱では、福地宗隆が織田方に味方して勢力を拡大した[2]が、天正10年6月(1582年6月)に織田信長が没する(本能寺の変)と、伊賀衆の残党に裏切り者として攻められ、国外へ逃亡した[2][4]。菊岡如幻の著した『伊水温故』は、福地氏の戦国時代の所領を1000石程としている。
構造
編集丘陵頂上の城郭と丘陵の裾の城郭に大きく分けられ、前者は詰城・後者は居館と推定される[7]。大手門は石垣を用い、礎石の遺構から門扉の存在が確認される[7]。大手門の両側には高さ3.5-4.8メートルの土塁があり、櫓の遺構と推測されている[7]。丘陵頂上には11以上の郭が確認され、同心円状に配置されている[7]。
現在、城跡は芭蕉公園として整備され、「伊賀の小屋組みの家」という懐石料理屋が営業している。
出土物
編集脚注
編集外部リンク
編集ウィキメディア・コモンズには、福地城に関するカテゴリがあります。