神秀
神秀(じんしゅう、606年(大業2年) - 706年4月15日(神龍2年2月28日))は、中国禅宗(北宗)の六祖(北宗としては開祖)。諡は大通禅師。俗姓は李。汴州尉氏県(河南省開封市尉氏県)の出身。
神秀 | |
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606年 - 706年 | |
諡号 | 大通禅師 |
尊称 | 三帝国師 |
生地 | 汴州尉氏県 |
没地 | 洛陽天宮寺 |
宗派 | 禅宗(北宗) |
寺院 | 洛陽天宮寺、荊州当陽山玉泉寺、度門寺 |
師 | 五祖弘忍 |
弟子 | 普寂 |
生涯
編集- 618年(武徳元年)、13歳で出家する。
- 625年(武徳8年)、20歳で洛陽の天宮寺において具足戒を受ける。
- 655年(永徽6年)、50歳で蘄州黄梅県馮茂山(東山)の五祖弘忍の門下に入ってその筆頭弟子となり、「彼に及ぶ弟子はいない」と師に評されるまでになった。
- 661年(龍朔元年)頃、56歳で師のもとを去り、『伝法宝紀』によれば、秘かに還俗したとか、荊州の天居寺に住していたというが、その後10年ほどの行動は確かでない。
- 674年(上元元年)、師の弘忍が没する。
- 676年(儀鳳元年)頃、荊州当陽山の玉泉寺に住し、その後、近くに度門蘭若を建立してそこに移った。
- 700年(久視元年)、94歳で武則天に招かれ、翌年、95歳で上京を果たした。彼は肩輿にて内道場に上殿し、北面して臣礼をとることなく、長安・洛陽の「両京の法主」となり、また、武則天・中宗・睿宗の「三帝の国師」となった。度門蘭若は度門寺に昇格した。
- 706年(神龍2年)2月28日、101歳で洛陽の天宮寺で没すると、中宗は詔して龍門山に葬り、岐王李範・張説・盧鴻の3人が碑誄を撰した。3月、諡して大通禅師の号を、度門寺には勅額を賜った。
思想
編集彼の禅法は段階的に悟りを進める「漸悟」であり、弟弟子の六祖慧能の直下に悟りに至る「頓悟」思想と対極を為した。(この点を、『壇経』では、神秀の「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」と、慧能の「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来清浄(伝本では本来無一物)、何れの処にか塵埃を惹かん」の偈によって象徴している)
当初は彼が六祖とされていたはずなのだが、後に六祖慧能の弟子で七祖を自称した荷沢神会の北宗批判により、それまでは区別のなかった東山法門派が神秀門下の「北宗」、慧能門下の「南宗」の二派に分かれるようになり、南宗開祖の慧能が神会の目論見通り、六祖となった。
彼の後は弟子の普寂が嗣いだ。
伝記資料
編集
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