神戸次郎
日本の陸軍軍人
神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 1868年5月5日[注釈 1]) - 1933年〈昭和8年〉9月30日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級[1]。陸士1期[注釈 2]。現在の山形県鶴岡市出身。
神戸 次郎 | |
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生誕 |
新暦 1968年5月5日 日本・出羽国 庄内藩 鶴岡城下(現・山形県鶴岡市) |
死没 |
1933年9月30日(66歳) 日本・石川県金沢市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1891年 - 1923年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集旧暦 慶応4年4月13日、出羽国 庄内藩 近習頭取 神戸善十郎[3](諱:義方)の次男として、鶴岡城下(現・鶴岡市)に生れる[4]。
1887年(明治20年)に陸軍士官学校に入校し、1890年(明治23年)7月26日に卒業した(陸士1期、歩兵科)、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科47番/103名で卒業している。
1891年(明治24年)3月26日、陸軍少尉。日露戦争中、第二師団歩兵第四連隊第二大隊長として歴戦し、連隊長代理も務める[5]。
1914年(大正3年)5月11日、陸軍大佐・福島連隊区司令官。1915年(大正4年)8月10日、歩兵第41連隊長。1918年(大正7年)7月24日、陸軍少将・歩兵第二十旅団長。1919年(大正8年)1月15日、歩兵第六旅団長。1920年(大正9年)8月10日、第九師団司令部付のシベリア出兵中留守隊司令官。
1922年(大正11年)11月14日、待命。1923年(大正12年)3月23日、予備役。1931年(昭和6年)4月1日、退役[6]。
1933年(昭和8年)9月30日、永眠す。享年66。同年10月4日、金沢市に於いて葬送に付き、勅使の山口安憲石川県知事より幣帛を下賜される[7]。
栄典
編集位階
編集- 1892年(明治25年)2月3日 - 正八位[8]
- 1894年(明治27年)12月18日 - 従七位[9]
- 1898年(明治31年)12月22日 - 正七位[10]
- 1915年(明治37年)3月18日 - 従六位[11]
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正六位[12]
- 1914年(大正3年)4月30日 - 従五位[13]
- 1918年(大正7年)8月30日 - 正五位[14]
- 1923年(大正12年)4月20日 - 従四位[15]
勲章等
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 『官報』第2058号「彙報-官吏卒去及死去」1933年11月9日。
- ^ 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧:I 陸軍:1.陸軍大学校卒業生
- ^ 「神戸善十郎」『荘内人名辞書』言霊書房、1937年、71頁 。
- ^ 「正五位勲三等功四級 陸軍少将 神戸次郎君」『山形名家録』山形名家録編纂局、1922年、95頁 。
- ^ 児島襄『日露戦争 5』文春文庫
- ^ 『官報』第1286号「彙報-陸海軍-退役編入」1931年4月16日。
- ^ 『官報』第2031号「宮廷録事-勅使差遣」1933年10月6日。
- ^ 『官報』第2576号「叙任及辞令」1892年2月4日。
- ^ 『官報』第3444号「叙任及辞令」1894年12月19日。
- ^ 『官報』第4646号「叙任及辞令」1898年12月23日。
- ^ 『官報』第6212号「叙任及辞令」1904年3月19日。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1914年5月1日。
- ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
- ^ 『官報』第3215号「叙任及辞令」1923年4月21日。
- ^ 『官報』第3884号・号外「叙任及辞令」1896年6月11日。
- ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
- ^ 『官報』第7030号・号外「叙任及辞令」1906年12月4日。
- ^ 『官報』第221号・付録「辞令」1913年4月28日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
参考文献
編集- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。ISBN 4-13-030135-7。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。