神戸の長吉[1][2][3][4](かんべのながきち、1814年 - 1880年3月20日)は、日本の侠客である[2][4][5]村上元三小説次郎長三国志』に同名で登場、「荒神山の喧嘩」の中心となった人物である[5]神戸長吉(読み同)とも[1][5]。「神戸の長吉」と呼ばれる前は吉五郎(きちごろう)と名のっていた[2][6]。本名は初芝 才次郎(はつしば さいじろう)[2][4][5]

かんべのながきち

神戸の長吉
生誕 初芝 才次郎 (はつしば さいじろう)
1814年
日本の旗 日本 下総国千葉郡浜野村
死没 (1880-03-20) 1880年3月20日(66歳没)
日本の旗 日本 三重県河曲郡神戸十日市町
墓地 法華宗陣門流妙祝寺
別名 吉五郎 (きちごろう)
職業 侠客博徒
雇用者 神戸屋祐蔵
著名な実績 荒神山の喧嘩
伊勢暴動鎮圧
活動拠点 伊勢国河曲郡神戸町
後任者 伊藤市五郎
敵対者 穴太徳次郎
子供 浅野才次郎 (跡目養子)
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人物・来歴

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1814年(文化11年)、下総国千葉郡浜野村(現在の千葉県千葉市中央区浜野町)に生まれる[5]小島政二郎の小説『次郎長日向』(1955年)には、吉良の仁吉(本名・太田仁吉、1839年 - 1866年[7])に対して加勢のお礼を述べに来て、その帰りに角井門之助に斬殺される「よね」という母が登場するが、フィクションである[8]。長吉は史実では仁吉よりも25歳年長である[5][7]。吉良の仁吉、館林の玉吉(御油の玉吉)とともに「三吉」と称された[7]

正確な時期は不明であるが地元を出奔、吉五郎の名で渡世人として生き[2]伊勢国河曲郡神戸城下(現在の三重県鈴鹿市神戸)に流れ着いたころには、すでに中年になっていたという[2][5]。同地に一家を構え、長身であり長顔であったことから「神戸の長吉」と呼ばれた[3][5]。山本鉄眉(天田愚庵、1854年 - 1904年)が清水次郎長に聞き書きし、次郎長の生前に上梓した『東海遊侠伝』(1884年)には、第十二回『笠砥高市両党争威 荒神激闘二魁殞命』(笠砥の高市に両党威を争い荒神の激闘に二魁命を殞す)という章があり、「吉五郎、其面頗る長し、人呼て長吉と云ふ」と記される通りである[6]神戸藩一万石の伝馬御用を勤める木田松の下請けで伝馬の仕事を引き受ける傍ら、神戸の十日市町入口の地蔵院(現在の天台真盛宗神戸十日市教会元地蔵院)に賭場を開いていた[2]日永の追分(現在の三重県四日市市追分)の神戸屋祐蔵(勇蔵とも[1][8])の配下に入る[5][8]。荒神山(現在の三重県鈴鹿市高塚町観音寺)は、もともとは神戸屋の縄張りであり[1][5]、祭礼の際に開かれる博奕場は繁盛し「千両かすりの賭場」と呼ばれた[7]。長吉は、この賭場の権利を神戸屋から譲渡されていた[1]

伊勢国員弁郡穴太村(のちの神田村、現在の東員町大字穴太)の穴太徳次郎(本名・中野徳二郎、1823年 - 1874年)、通称「穴太徳」(安濃徳とも)とは、同じ神戸屋の配下であり、兄弟分の間柄であった[2][5]桑名宿(現在の桑名市)は穴太徳の本拠地であったが、同地で長吉の養子、久居才次郎が博奕の上で喧嘩をしたところ、その報復として家に放火されるという事件が起きた[5]。1864年4月26日(元治元年3月21日)未明、伊勢参宮街道(現在の国道23号)の追分の一本松で、長吉らがさらにその報復として、穴太徳一派の人間を斬った[5][8]。「御座れ参れの喧嘩」という[8]。長吉は逃亡を余儀なくされ、神戸を離れていたが、その間に穴太徳一派が荒神山の賭場を自らの支配下に奪い取った[5]笹川臨風は長吉の不在について、逃亡ではなく「或る罪にて三年間獄屋に繋がれてゐる内に」と記している[1]。長吉が、義兄弟分の仁吉に相談し、その逆襲として勃発したのが、1866年5月22日(慶応2年4月8日)の「荒神山の喧嘩」であった[5][7]。仁吉は、三河国幡豆郡寺津村(現在の愛知県西尾市寺津町)の寺津一家三代目であり、寺津は二代目の寺津間之助の時代から次郎長の清水一家と同盟関係にあったため、大政関東綱五郎らと合流して先頭を切り、総勢22名で穴太徳、黒駒勝蔵(1832年 - 1871年)、雲風亀吉こと平井一家二代目平井亀吉(1828年 - 1893年)らと戦闘し、銃撃されて死に至る重傷を負っている[1][2][7]。この戦闘において、長吉を「現場から逃匿れてゐた」(笹川)というような「卑怯者」「臆病者」として描いたのは、史実とまったく異なっており、三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作である[1][2][5][8]。長吉に加勢した清水・寺津連合の22人のうち、『東海遊侠伝』が「外二名今名を失す」と書かれるのは、長吉の乾分であり、この戦闘で同2名は戦死した[2][6][9]

 
月岡芳年描く伊勢暴動(1876年)。

「荒神山の喧嘩」以降、郷里の浜野村に戻って隠遁していたが、明治維新以降に戻ってきて、神戸十日市町に居を構える[2]。1871年(明治4年)、荒神山手打式が行われたが、そのときの清水一家の集合写真には写っていない[10]。跡目養子であった久居の才次郎こと浅野才次郎は、1875年(明治8年)に伊勢国一志郡久居(現在の三重県津市久居)に定住し、長吉の跡目を継ぐことなく、弟分の糸屋の市五郎こと伊藤市五郎が相続し、長吉は隠居した[2][4]。市五郎は、当時「桑名侯の落胤」つまり先代の桑名藩主松平猷(1834年 - 1859年)の隠し子である、という噂があった人物であるという[4]。長吉の本名は初芝 才次郎とされるが[4][5]、これは維新以降に改めて名のったものである[2]。1876年(明治9年)11月の伊勢暴動では、神戸の町に暴徒が侵入、民家に放火をしようとしたが、これを防ぐために指揮を執り、暴徒の先頭集団の1名を斬殺、鎮圧側に回ったという[2][4]

1880年(明治13年)3月20日、病気により死去した[3][5]。満66歳没(享年67[5])。『日本俠客100選』の「穴太の徳次郎」の項の末尾には、長吉の没年月日として「明治十三年三月二十六日」と記載されているが[2]、これは誤りである[4][5]

 
神戸の長吉の墓(鈴鹿市妙祝寺)

藤田五郎によれば、長吉の墓は三重県鈴鹿市西条町の法華宗陣門流妙祝寺[11] にあり、建てたのは千葉県千葉郡浜野村の初芝初五郎、戒名は「妙法本行院誉泰嶺日徳信士」であるという[3][4][9]。長吉の墓は、2基の身内の墓と並んでいるが、同寺の過去帳には「慶応二年寅歳四月八日 泰進信士、仝 最進信士 才次郎子分」とあり、いずれも「慶応2年4月8日」つまり「荒神山の喧嘩」で死んだ子分の墓である[2][9]

フィクションの人物像

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フィクションにおける「神戸の長吉」は、義理人情に殉じたヒーロー吉良の二吉に比して、戦闘時に隠れていた「卑怯者」「臆病者」として描かれるが、これは史実とは異なり、三代目神田伯山の創作である[1][2][5][8]。郷土史家・堀文次が1935年(昭和10年)から伊勢新聞等に発表、史実を明らかにした研究は、長谷川伸村上元三といった清水次郎長周辺の物語に興味を持った作家に少なからず影響を与えたという[8]。荒神山に関する堀の研究は、1963年(昭和38年)に上梓した『郷土史料 荒神山物語』にまとめられた[8]

長吉は史実では仁吉よりも25歳、次郎長と比較しても6歳も年長であり、荒神山の時点では満52歳前後であるが[5][7]、「荒神山の喧嘩」を描く映画では、気の弱い青年に描かれる。松田定次が監督した『次郎長一家』(脚本比佐芳武、1938年)では、次郎長に公開時満36歳の月形龍之介[12]、仁吉に同じく満32歳の沢村国太郎[13] に対し、長吉を演じた市川正二郎は、同作公開時には満25歳であった[14]。同じく松田が戦後監督した『勢揃い東海道』(脚本高岩肇、1963年)では、次郎長に満59歳の片岡千恵蔵[15]、仁吉に満33歳の大川橋蔵[16]、長吉に満23歳の河原崎長一郎を配した[17]。『勢揃い東海道』では青年に描かれた長吉の母親・お松も登場し[18]、公開時満55歳の松浦築枝が演じているが[19]、史実では長吉はむしろこの母の年齢に近い[5][7]八尋不二がオリジナル脚本を書いた『二十九人の喧嘩状』(監督安田公義、1957年)、『次郎長富士』(監督森一生、1959年)では、長吉は仁吉の「弟分」と明確に位置づけられており[20][21]、仁吉はいずれもそれぞれ公開時満25歳・満27歳の市川雷蔵[22] であるのに対し、長吉にはそれぞれ満25歳の林成年[23]、満27歳の舟木洋一[24] が配されている。

マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは、東宝版では荒神山がクライマックスになっているのに対して、東映版では『次郎長三国志 甲州路殴り込み』(1965年)で終わっており、荒神山のくだりは描かれていない[25][26]。東宝版の最終篇『次郎長三国志 第九部 荒神山』(脚本橋本忍、1954年)では、仁吉を同作の公開時満37歳の若原雅夫[27]、長吉を同じく満37歳の千秋実が演じている[28]。同作では荒神山が「神戸の長吉が親の代から譲られた繩張だった」という設定である[29]。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、長吉を描く『神戸の長吉』は第21章『吉良の仁吉』の手前の第20章に当たる[30]

フィルモグラフィ

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「神戸の長吉」が登場するおもな劇場用映画テレビ映画の一覧である[31][32][33][34][35][36][37]。公開日の右側には、「神戸の長吉(吉良の仁吉・次郎長)」の形式で神戸の長吉を演じた俳優名とともに、吉良の仁吉・次郎長を演じた俳優も記した。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[31][38]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 笹川[1936], p.260.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 今川[1971], p.170-171, 178.
  3. ^ a b c d [1972], p.310.
  4. ^ a b c d e f g h i 藤田[1983], p.400, 477.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 神戸の長吉コトバンク、2015年8月7日閲覧。
  6. ^ a b c 山本[1884], p.134.
  7. ^ a b c d e f g h 吉良仁吉、コトバンク、2015年8月7日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 志水[2003], p.218-225.
  9. ^ a b c 増田[1972], p.84.
  10. ^ [1]ウィキメディア・コモンズ、2015年8月7日閲覧。
  11. ^ 妙祝寺法華宗陣門流、2015年8月7日閲覧。
  12. ^ 月形龍之介 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  13. ^ 沢村国太郎 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  14. ^ 市川正二郎 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  15. ^ 片岡千恵蔵 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  16. ^ 大川橋蔵 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  17. ^ 河原崎長一郎 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  18. ^ 勢揃い東海道 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  19. ^ 松浦築枝 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  20. ^ 二十九人の喧嘩状 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  21. ^ 次郎長富士 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  22. ^ 市川雷蔵 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  23. ^ 林成年 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  24. ^ 舟木洋一 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  25. ^ 次郎長三国志、コトバンク、2015年8月7日閲覧。
  26. ^ 次郎長三国志KINENOTE, 2015年8月7日閲覧。
  27. ^ 若原雅夫 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  28. ^ 千秋実 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  29. ^ 次郎長三国志 第九部 荒神山 - KINENOTE、2015年8月7日閲覧。
  30. ^ 次郎長三国志+村上元三国立国会図書館、2015年8月7日閲覧。
  31. ^ a b 所蔵映画フィルム検索システム 検索結果、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年8月7日閲覧。
  32. ^ 日本映画情報システム 検索結果、文化庁、2015年8月7日閲覧。
  33. ^ KINENOTE 検索結果、キネマ旬報社、2015年8月7日閲覧。
  34. ^ 日本映画データベース 検索結果、日本映画データベース、2015年8月7日閲覧。
  35. ^ 東宝資料室 検索結果、東宝、2015年8月7日閲覧。
  36. ^ 日活作品データベース 検索結果、日活、2015年8月7日閲覧。
  37. ^ 全文検索 検索結果、テレビドラマデータベース、2015年8月7日閲覧。
  38. ^ フィルムリスト 検索結果、デジタル・ミーム、2015年8月7日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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画像外部リンク
  神戸長吉墓碑
法華宗陣門流妙祝寺(三重県鈴鹿市西条町)