磯部町 (常陸太田市)
磯部町(いそべちょう)は、茨城県常陸太田市の町名。郵便番号は313-0042(常陸太田郵便局管区)。
磯部町 | |
---|---|
磯部町(2011年2月撮影) | |
北緯36度31分22.5秒 東経140度31分39.2秒 / 北緯36.522917度 東経140.527556度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 茨城県 |
市町村 | 常陸太田市 |
地区 | 佐竹地区 |
標高 | 8 m |
人口 | |
• 合計 | 918人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
313-0042 |
市外局番 | 0294(常陸太田MA) |
ナンバープレート | 水戸 |
※座標・標高は磯部集会所付近 |
地理
編集常陸太田市南部に位置する。町の北の境界を源氏川が、東の境界を里川が流れ、磯部町で合流する[2]。南の境界は渋江川が流れる。農山村的特徴と都市的特徴の両方を兼ね備えているが、常陸太田中心部に近接するため、都市的特徴が顕著である[3]。国道349号に沿って集落が形成され、街村形態を呈する[4]。
- 山:峯山(標高:32.6m)
北は稲木町・山下町・三才町、東は小沢町・内田町、南及び西は谷河原町と接する。
歴史
編集磯部町では、縄文時代の峰遺跡や峯山・磯部古墳群が見つかっている[5]。
文献記録では、鎌倉時代の『弘安田文』に「磯部十六丁三段大」と書かれ、常陸国佐都西郡(さとさいぐん)に属していた[6]。佐都西郡は平安時代末期には佐竹氏の本貫であり、鎌倉時代末期に臨川寺に寄進された「佐都荘」の荘域内だったと考えられている[7]。ほかにも明応3年(1494年)頃の筆と思われる『当乱相違地注文写』に「いそへくるま方」[5]、「礒辺乃内とうさい寺方 同違乱」[6]などとあり、佐竹の乱の折に小野崎氏や江戸氏に押領されていた[5]。文禄3年(1594年)の太閤検地により佐都西郡が久慈郡に組み入れられた[7]ため、磯部も久慈郡となった[5]。
江戸時代には常陸国久慈郡大里組に属しており、磯部村(礒部村)と称した。慶長14年(1609年)を境に、佐竹氏から水戸藩へ支配者が変わった[5]。村高は寛永12年(1635年)の『水戸領郷高帳』に1,031石余、『元禄郷帳』に956石余などとある[5]。『国用秘録』には、肥沃な土地であると記され、天保13年(1842年)の検地の記録によれば、田畑は101町余で分米は34石余、新田畑は4反余で分米は1石余だったという[6]。
明治時代になると、町村制の施行により近隣3村と合併し、久慈郡佐竹村の大字となった。村役場は磯部に置かれた[8]。佐竹村は昭和の大合併において、太田町ほか5村と合併して常陸太田市となり、磯部町という町名となった。市制施行後は、住宅地化が進み[4]、1960年(昭和35年)4月6日に市立峰山中学校が現在地に移転した[9]。
沿革
編集- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、久慈郡磯部村が天神林村・稲木村・谷河原村と合併し佐竹村が発足。磯部村は佐竹村大字磯部となる。
- 1954年(昭和29年)7月15日 - 佐竹村が佐都村・誉田村・機初村・西小沢村・幸久村とともに太田町に編入、太田町が即日市制施行し常陸太田市へ移行。佐竹村は廃止となる。佐竹村大字磯部は常陸太田市磯部町となる。
地名の由来
編集『水府志料』によると、往古は「五十騎」(いそめ)、「箕山」と称した[5]。
人口の変遷
編集1764年(明和元年)[6] | 105戸 509人 |
1805年(文化 2年)[6] | 58戸 ?人 |
1891年(明治24年)[7] | 135戸 697人 |
1980年(昭和55年)[4] | 326世帯 1,189人 |
2011年(平成23年)[10] | 343世帯 902人 |
2017年(平成29年)[1] | 369世帯 918人 |
小・中学校の学区
編集交通
編集鉄道
編集路線バス
編集道路
編集施設
編集- 常陸太田市立峰山中学校
- 佐竹郵便局
- 常陸大理石株式会社本社
- 県北自動車整備車検株式会社
史跡
編集- 熊野鹿島神社(五十部神社) - 峯山にある神社。旧村社。神体は幣、祭神は伊弉諾命・武甕槌命[6]。小字腰巻と箕山(みやま)から各25人ずつが集まって創建したことから、五十部(いそべ)神社と名付けられたという[6]。徳川秀忠より社領6石を与えられた[6]。
- 宝来山宝光寺宝寿院 - 長享3年(1489年)開基の真言宗寺院。天保14年(1843年)廃寺[6]。門徒が5寺あったが、磯部村にあった3寺は寛文6年(1666年)に還俗処分を受けた[6]。
- 鶴堤地蔵堂(つるさげじぞうどう) - 空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地に宿泊した翌朝、天竺から飛来した化石を見つけ、延命地蔵を彫り堂を建てた、という伝説がある[13]。西山荘に隠居していた徳川光圀は、よく磯部村で鷹狩りを楽しんでおり、由緒あるこの地蔵を水戸に持ち帰った[14]。しかし、地蔵が「磯部恋し」と呟き始めたことから磯部村に戻し[15]、地蔵に三つ葉葵の入った金色の袈裟を献上したとされる[16]。家内安全・延命息災・子安地蔵として信仰を集め、2月24日と8月24日に上宿・中宿・下宿でそれぞれ「オセンダンゴ」と呼ばれる千個の団子を作って供える会式を行う[17]。
出身者
編集脚注
編集- ^ a b “町内別人口(平成29年8月1日現在)”. 常陸太田市 (2017年8月1日). 2017年8月30日閲覧。
- ^ 平凡社(1982):145ページ
- ^ 伊藤ほか(1998):47ページ
- ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1983):1115ページ
- ^ a b c d e f g 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1983):116ページ
- ^ a b c d e f g h i j 平凡社(1982):161ページ
- ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1983):456ページ
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1983):454ページ
- ^ 常陸太田市立峰山中学校"峰山中学校:学校概要"(2011年2月17日閲覧。)
- ^ 常陸太田市役所情報政策課情報化推進係"町内別常住人口調査(平成23年1月1日現在)"(2011年2月17日閲覧。)
- ^ 常陸太田市教育委員会"各小中学校通学区域(学区)"(2010年12月22日閲覧。)
- ^ 常陸太田市役所建設課改良係"市道0120号線(磯部天神林線)"2010年6月2日更新.(2011年2月17日閲覧。)
- ^ 常陸太田市史編さん委員会 編(1979):630ページ
- ^ 常陸太田市史編さん委員会 編(1979):720ページ
- ^ 常陸太田市史編さん委員会 編(1979):720 - 721ページ
- ^ 常陸太田市史編さん委員会 編(1979):630 - 631ページ
- ^ 常陸太田市史編さん委員会 編(1979):631ページ
- ^ 常陸太田市役所商工観光課観光係"都々逸房扇歌の碑"2009年8月5日.(2011年2月17日閲覧。)